2002年9月25日水曜日

父のこと

2002.9.25〔旧HPに掲載〕

父のこと

亡くなった父、橋本幸次は、明治41年9月25日、富山県高岡の農家に生まれた。子供が多く生活は苦しかったようだ。ちなみに富山の米騒動は父が10歳の時に起こっている。大正12年14歳で上阪し洋服屋の丁稚奉公を始める。技術を身につけ大正14年に16歳で百貨店大丸に裁断士として就職。初任給は巡査の初任給は45円という時代に60円だった。数年勤務した後、独立し洋服店を開業。自転車で注文を取りに回る営業で徐々に商売を大きくし、戦後の混乱期も乗り切る。洋服小売では利潤がとれないと昭和26年には洋服小売店の上流部門である服地卸業に進出し、さらに昭和36年に関西ではある程度の名前が知られた食品会社の経営権を取得するなど、事業の幅を一貫して広げていった。97年に88歳で亡くなったが、その前日まで現役を引かず会社に車椅子で出勤していた。個性の強い人間で、独特の人生観を持っていた。時として周りの人間に辛く当たることがあった。

ぼくは五人兄姉の末っ子として生まれたので、年齢的にも父親とはとても距離があり、あまり一緒に遊んで貰った記憶はない。一度天王寺の動物園に連れって行って貰ったくらいだろうか。でも父は子供たちにはとても気にかけていたように思う。自分に教育がなく苦労したことから5人の子供はどうしても全員大学にやると頑張った。あるとき景気が悪く手形の期限延長を頼まざるをえなかったとき、先方はうちの子供は大学にもやっていないのにお宅は女の子まで大学にやって良い身分だと嫌みを言った。父は即座に「だったらその代わり私がタバコをやめる」と言って禁煙の誓いを立て、以来死ぬまでタバコは吸わなかった。子供の入学試験には仕事をさしおいて付き添っていった。自分が付き添うと試験に通るというジンクスを信じていたからである。ぼくの大学受験のときすら、来ないとの約束にかかわらず、試験の日ボタ餅を持ってやってきた。

ぼくは父親とは幸いにして比較的いい関係にあった。それは年齢的に離れていたことと、一緒に過ごす期間が短かったから故に、適当な距離を置いた関係であったからかも知れない。中学高校は受験校だったのでほとんど部屋にこもりっきりだったし、大学では親元を離れて下宿した。家業とは関係のない民間会社に就職し、それも東京だったし、海外も長かった。年に一二度しか顔を会わさない状況が何十年も続いていた。個性の強い人だったから、いつも一緒に居る家族はたいへんだっただろうが、その点ぼくは恵まれていると思っていた。

でも人生の節目節目で父親の力にすがった。絶体絶命の状況に追いつめられたこともあるが、父は何も言わず精神的、経済的に支援してくれた。普段は憎まれ口ばかり叩いてとりつく島もないような父親だったが、いざというときは積極的に救いの手をさしのべてくれたのだった。おかげでまだぼくはなんとか生きている。

亡くなる二ヶ月ほど前、実家に帰って父の顔を見た。ほとんどものを食べない状態だったが、昔と変わらない長舌ぶりだった。さすがに辟易してお暇を取ろうとしたら、父の口から「おとんぼ」という言葉が出てきた。はじめて聞く言葉だったが、富山の方言で「末っ子」という意味で、「おとんぼ」は家族の中で最後に生まれてきた子供であり、よって親と一緒にいる時間が一番短く、親の愛情を最も少なくしか受けられない子供ということで、可哀想な存在と言うことらしい。「おまえはおとんぼだから可哀想だ」と玄関に出ようとするぼくに向かって、繰り返し、ぼくを見るために椅子から反り返りながら言った。ぼくにとってそれが父の最後の言葉だった。

ほとんど実家に寄りつかなかったぼくの人生だったが、父は、ぼくのそういう生き方を哀み、同時に自分の人生をそれに投影していたのかも知れない。思えばぼくの人生も14歳にして家を出された父の人生に似ているともいえる。彼もずっと寂しかったのだろうと思う。以来、父のこの最後の言葉を思い出すことが多い。もっといろいろ父と話すことがあったような気がしてならない。

2002年9月20日金曜日

〔再録〕荷風碑の誤植の責任者は誰か?


  荷風塾学校通信No7『荷風の誤植』    余丁町散人、2002.9.20
「荷風」と名が付く本で出れば必ず買うことにしていますが、今回出された矢野誠一のエッセイ集『荷風の誤植』(2002.8.20発行)も早速購入。また新たな発見をしました。三ノ輪の浄閑寺の荷風碑に彫られている荷風の詩の「ミスプリント」についてです。有名な詩なのであえて全文引用します(テキストは岩波の最新版「荷風全集」)。

<引用>
震災

今の世のわかき人々/われにな問ひそ今の世と/また来る時代の芸術を。/われは明治の児ならずや。/その文化歴史となりて葬られし時/わが青春の夢もまた消えにけり。/團菊はしをれて楼痴は散りにき。/一葉は落ちて紅葉は枯れ/緑雨の声も亦絶えたりき。/圓朝も去れり紫蝶も去れり。/わが感激の泉とくに枯れたり。/われは明治の児なりけり。/或年大地俄にゆらめき/火は都を焼きぬ。/柳村先生既になく/鴎外漁史も亦姿をかくしぬ。/江戸文化の名残煙となりぬ。/明治の文化また灰となりぬ。/今の世のわかき人々/我にな語りそ今の世と/また来む時代の芸術を。/くもりし眼鏡をふくとても/われ今何をか見得べき。/われは明治の児ならずや。/去りし明治の世の児ならずや。
<引用終わり>

問題は、この詩の中で「圓朝も去れり紫蝶も去れり」とある「紫蝶」とは誰のことかと言うことです。これについて『荷風の誤植』で矢野誠一は「紫蝶」と名乗る人で圓朝と並び称するような人は居なかった。たぶん幕末から明治にかけて人気を博した新内語り富士松「紫朝」の誤植だろうとされているわけですが、その発見の経緯が面白い。実に川本三郎氏がわざわざ矢野誠一に手紙で聞いてきたというのです。

小生がこの「ミスプリント」についてはじめて知ったのは、1999年8月の江戸東京博物館での川本三郎の講演でした。矢野誠一はこの随筆を99年11月に書かれていますのでほぼ同時期ですので、川本氏は矢野誠一に確かめられたあと講演でお話になったものと思われます。一大発見とのことで会場は大いに沸きました。

小生もそうか誰も気がつかなかったのかと面白がっておりましたが、ところがその後、古本屋で買った磯田光一の名著『永井荷風』(昭和54年初版)を読んでいますと、その中で引用されている荷風の「震災」の文章はちゃんと「紫朝」となっていることに気がつきました。あわてて旧版の岩波全集(昭和39年)を見るとそこでも「紫朝」となっているではありませんか。でも最新版の岩波全集では「紫蝶」となっている。なんだか狐につままれたような気分です。

こうなると俄然興味がわいてきますので、いつもは読むことのない「校異表」なぞを引っ張り出して調べますとこういうことのようです。この詩が最初に活字になったのは1946年筑摩書房から出た『来訪者』で、そこには「紫蝶」と誤記されていたものを、中央公論社から出された「荷風全集」(1959年)ではだれかがこのミスプリントに気がつき「紫朝」と直したことがわかりました。その後出版された1964年の岩波版「荷風全集」でも正しい「紫朝」となっています。磯田光一は中央公論社版か岩波版かのどちらかの荷風全集から引用したので当然「紫朝」となるわけです。ところが岩波が1994年に最新版の荷風全集を出すに当たって、厳密に荷風の自筆原稿を確かめるとそこには「紫蝶」と書いてあった。あくまでも原本に忠実に記載するという編集方針も元に、あえて間違った「紫蝶」と元に戻したと言うことのようです。

荷風碑が建ったのは昭和34年に荷風が死んですぐあとだったと思いますので石碑には『来訪者』に書いてあるままを彫ったものでしょう。間違いに気がついて直した中央公論社の編集者は凄いと感心いたしました。さらに荷風の書き間違いをあえて元に戻してそのまま印刷するという岩波の編集方針にも敬服いたしました。でもそのおかげでいろんな混乱が起きたことも事実のようです。

何を細かいことを騒いでいるのだとおっしゃるかも知れませんが、荷風ファンというものはこのようなどうでもいいような細かいことに一喜一憂して大はしゃぎする人々なのです。このあたりの愉しみに淫することができないようでは、なかなか荷風ファンとは言えませんぞ。でもご安心ください。荷風が好きな人はだんだんそうなるのです。この駄文に興味を持ってここまで読んでくださったあなたも、そろそろそうなりかけている・・・。

最近小生の手持ちCDを整理していると新内のCDが出てきました。蘭蝶という色男に花魁が惚れるという「蘭蝶」という新内です。荷風はきっと紫朝が語るこの新内「蘭蝶」が大好きだったので、つい紫朝を「紫蝶」と誤記してしまったのではないかというのが小生の推理ですが、はたしてどうでしょうか。


追記)ここまで書いてきて、念のために川本三郎『荷風好日』(2002年2月)を読むと、川本三郎は後日、紫朝は若いときに紫蝶と名乗っていた時期があったという新たな発見をしたとの追記がありました(森まゆみ『長生きも芸のうちー岡本文弥百歳』に書いたあった由)。こうなってくると中央公論社の編集者が余計なことをしたと言うことになる。わかったと思ったらまた迷路にはまりこんでしまいました。荷風をめぐる事実関係は複雑怪奇です。奥が深いのう。











2002年9月15日日曜日

「長生きリスク」にどう対処するか

2002.9.15


今日は敬老の日。「多年にわたり社会につくしてきた老人を敬愛し、長寿を祝う国民の祝日」とのことです。お年寄りにはぜひ長生きして貰いたいものだと思います。でもそんなことを言う散人自身も、いつしかもう年寄りと呼ばれてもおかしくない年頃です。人生の現実の厳しさを前にして、そろそろ老後対策も考えなければならないようです。まず一番大切なことは老後を支える経済的基盤でしょう。いったい幾らあれば大丈夫なのでしょうか。

その点に関し「 老後のキャッシュフローを考える 」というホームページでとても参考になる解説があるというので早速読んでみました。執筆者は大手企業を定年退職され方ですが、具体的な例を挙げてとても説得力に富んだ計算を提示されています。正直言って驚きました。結論として年収1000万円以上の収入があった人が、生活程度をそれほど落とさずに、ゆとりある老後を過ごすには「公的年金以外に退職時に1億円必要」ということなのです。おまけにこの計算は平均寿命(男性は81歳)で死んでしまうことを前提としています。

今月厚生労働省が発表した全国高齢者名簿によると今月末までに百歳以上となる高齢者が1万7000人に達するとのこと。32年連続で過去最高を更新、どんどん長寿化の傾向を示しているとのことです。81歳まで生きることが前提で1億円ならば、100歳まで生きるなら2億円、120歳までなら3億円となります。たとえ退職時に1億円の蓄えがあるという幸運な人であっても、もし不運にも長生きしてしまったら、81歳以降はわずかな公的年金だけに頼る「惨めな生活」を送らねばならないと言うこと。これを「長生きリスク」といわずしてなんと呼べばいいのでしょうか。暗澹たる気持ちにさせられます。
もちろん計算の前提にはいろいろ議論があるかと思います。でも言えることはちょっとたいへんな事態と言うこと。年金システムは破綻仕掛けており、今更政府が何かしてくれることは期待できない。自助努力しかないでしょう。個人が出来る対応策とは、お金を貯めるというのは勿論でしょうが、他にどんなものがあるのでしょうか。基本的に二つしかないと思います。

一つは、定年後も収入を求め出来るだけ長く働き続けることです。ハッピー・リタイアメントは諦めなければなりませんが、たとえ収入が少ない仕事であってもトータル・キャッシュフローでは大きな違いとなって現れてきます。でも管理職を長く続けてきた人に出来る仕事と言えば、やはり管理的な仕事。老害をまき散らさないかが心配です。本人がフロアの仕事でもかまわないといって単純労働に従事するにしても、今度は就業が難しい若年層の仕事を奪うことにも繋がりかねません。 ただでさえ日本の高齢者は働き者で、高齢者の就業率はヨーロッパ諸国のそれの二倍にも達しています。これ以上高齢者の就業率が上がることは(たとえボランティアの仕事であるにせよ)決して社会的によい傾向ではありません。戦後のパージで企業と役所から年輩者がいなくなって日本経済はどれほど活性化したかは、源氏鶏太の『三等重役』を読めばわかります。それと逆のことが起きる。

もう一つは、ドラスティックな対応であるのですが、なにをもって「ゆとりのある」生活であるかとする基準を変えることです。つまりお金がなくても幸せに感じるように自分を訓練すること。若いときのように物質的な享楽に人生の幸せを求めることはそろそろ卒業し、むしろそれを軽蔑し、物質的なものでなく精神的なものに人生の幸せを求める生き方を目指すべきでしょう(開き直りですね)。これは仏教でいう悟りです。お釈迦様はやはり偉かった。

しかしお金を使わずに人生を楽しむには、それなりの基礎が必要です。スポーツにしても全くの下手なプレーヤーであれば本人も面白くないでしょうし、本を読むにしてもベースとなる教養がなければ楽しめません。お金を使わないでも幸福感を味わうということは、実は高等テクニックであり、基盤となるその人の教養次第です。それには長い準備期間が必要です。散人も、常々もっと若いうちからこの努力をしておけばよかったと反省しています。ルイ・ヴィトン店に群がる若者を見るにつけ、貧しさの反動としての顕示的消費フィーバーが日本でまだまだ続いていると感じます。そろそろ卒業してもいい時期じゃないかな。若い世代にとって、これが一番の老後対策、「長生きリスク」への対処法かもしれない。

高齢者が消費にお金を使わないのが経済低迷の原因とする俗説がありますが、気にすることはありません。日本経済にいま一番必要なものは一時的に総需要を押し上げるだけの消費需要ではなく、落ちてしまった経済の生産性を上げるための設備投資です。高齢者の金融資産という原資があってはじめて設備投資が可能になります。日本経済の将来のためにも、高齢者は過剰な消費に走ってはならないのです。自信を持ってお金は使わず質実剛健で行きましょう。

2002年8月29日木曜日

田端強君のこと

2002.8.29


田端強君のこと


歳をとるにつれ、古くからの友達が抜け落ちるように逝ってしまうことは悲しい。「長生きして良かったことは」と聞かれたさる高齢の財界人が「厭な奴が全部先に死んでしまったことだよ」と寂しそうに答えたという話を聞いたことがあるが、この世の中には厭な奴より良い奴のほうが数としては多いわけで、またたとえ厭な奴であってもその人との関わり合いとは自分の人生の確かな一部であったわけで、人は歳をとることにより必然的に悲しい思いを積み重ねざるをえない。特に小さいときからの友人を失うことはとてもつらい。田端強もそのひとりであった。

彼と知り合ったのは中学校の時だったと思う。机が前後して接していたので自ずと言葉を交わすようになったが、通学ルートが違うので最初は友達と言うほどでもなかった。当時の灘中生の通学経路は、3割が阪急岡本駅を利用、3割が国電の住吉駅、また3割が阪神の魚崎駅利用で、残る1割が阪神国道を走る国道電車と大ざっぱに分かれていて、学校から帰る途中で同じ電車を利用する者同士で寄り道したりして親しくなることが多かったのだが、彼と杉山は阪急組、僕は国道電車組だったのであまり顔を合わせることがなかったのだ。親しくなったのは高校になってから杉山和彦を介してのことだったと思う。三人でよく遊んだ。

田端は裕福な家庭の長男で父親の愛情をふんだんに受けて育っていた。夏の暑いときは当時は普通の人は見たこともなかったクーラーのある応接間で勉強させて貰っていたし、夏休みは勉強と称して涼しい山の上の六甲ホテルでひとりで過ごしていた。またお父さんが香港で買ってきたというローレックスを腕にして、家のセドリックを自由に乗り回していた(昔は16歳で運転免許が取れた)。そんな高校生はさすがの灘高にも少なく、地味な家庭に育った僕なんかにはものすごく格好良く見えた。畏敬さえ感じた。でも彼はそれをことさら自慢するでなく、また恥ずかしがるのでもなく、ごく自然に振る舞っていた。

彼と僕は京都大学に進学した。同級生は東京の大学に進む者が多くに行く、京都に行ったのは少数派だった。特に僕が入った経済学部には灘高出身者はひとりも居らず、寂しかったので彼の百万遍の下宿によく泊まりに行った。彼は勉強が厳しい工学部に入学したので「経済学部のぼんくらとは一緒に遊んでられない、じゃまするな」と時々追い返されたが、それでも彼の下宿の大きなベッドによく一緒に寝た。もちろん変な関係ではなく二人ともまだ子供だったのである。でも彼の方が成熟が確実に進んでいて、先輩としていろんなことを教えてくれた。酒の飲み方とか、服装の選び方とか、女性とのつきあい方とか。初めて女子大生とグループ・デイトをしたのも彼と一緒だった。体育会ヨット部に入部できたのも彼に付いていったからだ。受験勉強から解放されて彼を師としての京都での自由な生活は、本当に素晴らしく、数限りない楽しいことを一緒に経験した。

ところが、彼はもともとからだが丈夫じゃなく肝臓に問題を抱えていた。やがて彼の宿痾がぶり返すことになる。大学院に進む直前に彼は入院することとなった。一時は処方された強い薬の副作用で髪の毛が抜け落ちるということもあり悲惨だった。しかし、のちに田端夫人となる鈴恵嬢の献身的な愛情を受けて彼は再起する。

この間、深く考えることがあったのだろう。その時以来、彼はそれまでのどちらかといえばプレイボーイ的な生活とはきっぱり別れを告げ、徹底して真面目な生活をはじめた。長男であるにもかかわらず家業を継ぐことをやめ学者になる道を選ぶ。一転してそれまでの物質的なライフスタイルを、背伸びした格好が悪い贅沢として軽蔑するようになった。その変身ぶりにはみんな驚いた。

僕は大学を出て就職し、しばらくして海外に行ってしまったので、田端とだんだん縁遠くなった。海外から帰っても東京に住むことになり、彼とはなかなか会う機会もなかった。田端にしてみれば僕などはとっくの昔に卒業した軽薄な時代の遊び友達という分類に入っていたのかもしれない。彼が亡くなる前の数年間は年賀状も来なかった。あとで田端夫人に聞くと、晩年は体調が悪い状態が続き、健康に生活しているむかしの友達にどう近況を伝えていいか判らず、本人はとても辛そうだったとのことだった。

1991年8月、突然彼が亡くなったとの知らせを受けた。お葬式で彼の長男にお目にかかったが、彼と瓜二つだった。一度夫人と一緒に三人でゆっくりお話し出来ればと思ったが、その機会もないまま今に至っている。

僕も歳をとった。そのなかで田端強はいつまでも若く、人生で一番うきうきしていた時代の象徴として、僕の心に深く残っている。何でもかんでも彼のまねをした当時を懐かしく思い出す。最近、僕も今まで馬鹿のように熱中していた消費型のライフスタイルをうざく感じるようになり、それから距離を置くようになってきている。これは田端強が数十年前にすでに悟っていた境地に近いのかもしれない。彼はいつになっても僕のライフスタイルの先達なのだと思う。



〔旧HP閉鎖により再録〕

2002年8月19日月曜日

夏のお便り


夏のお便り
                 ..................
余丁町散人

今年は異常に暑い日が続くと思っていたら、今日は雨が降って急に気温が下がりました。秋にならないうちに急いで夏のお便りをいたします。

家内は6月、7月とフランスに帰っていました。家族でブルターニュの夏の家で過ごし、涼しくてたいへん快適だったそうです。この夏の家は家内の亡くなったお父さんが若い頃海沿いの農家を買ったもの。石造りの壁は厚さが1メートルはあろうという古い建物で浜には船もおけます。ヨーロッパの生活には、この石壁のような蓄積の厚みがあり、羨ましい限りです。

散人は東京に残って猫と庭の世話をしておりました。世話の甲斐があって、今年はモモがたくさん実をつけました。砂糖煮にして食べています。

モモが実をつけました

昼寝するピカチュウ

猫を飼っていると猫がだんだん主人に似てくるのか(主人が猫に似てくるのか)、うちのピカチュウは昼寝をするとき枕を使うようになりました。時々夢を見ているのか、寝ながら尻尾を振ったり猫キックをしたりします。朝も以前は早起きだったのですが最近は8時頃まで朝寝坊をします。

暁は昨年文学部フランス文学科を卒業しコンピュータ・グラフィックの専門学校で勉強していましたが、今年ようやくソフト会社にCGデザイナーとして就職が内定しました。来年の4月から社会人となります。若年層の就職がなかなか難しい状況下、ほっとしております。就職の作品選考用に暁が作ったCGをHPにアップしておきました。下のリンクです。

***
新しいマック

散人のマックを新しい iMac に換えました。古い初代 iMac をだましだまし使ってきたものですが、HPを作るようになるととても旧型マックでは対応できないことが分かりました。OSが全く新しくなっており、驚きました。昔々、初代の 512k マックを買ったときの感動に似ています。新しいエクセルのデーターベース機能にも感動。文学作品の索引作りに挑戦しようかと考えています。現在荷風の参考書の整理とか、團伊玖磨の『パイプのけむり』全巻のインデックス作りを始めています。こんな事をしていますと時間は幾らあっても足りません。

景気がいつまでたっても良くならないのでいささか憂鬱です。北風の中で外套が飛ばされないように身を小さくする旅人のように、いつかは暖かい太陽がでてくるものと期待して、それまでは地味に行こうかと思っています。

2002年8月14日水曜日

「やっぱり」連発はやっぱり駄目

2002.8.14


JA全中の宮田勇新会長のテレビインタビューをNHKニュースで見ました。日本の農業の今後についていろいろ語っておられましたが、むしろ面白かったのは、その内容よりこの方のお話の仕方。お口癖なんでしょうが「やっぱり」という言葉を盛んにお使いになる。曰く「やっぱり」食べ物は安全が第一だし・・・、「やっぱり」環境保全に配慮しなければ・・・、「やっぱり」農業が心の安らぎをもたらすということも考えて・・・、「やっぱり」主食は自給でなければならないし・・・エトセトラ、エトセトラ。「やっぱり」を短い3分ぐらいの間に30回ぐらいはお使いになってました(6秒に一回ですかね、計算すると)。

この「やっぱり」が気になって、テレビを見ている間、お話しの方はそっちのけで、もしこれを外国語に通訳しろと言われたらどう訳せばいいのだと考えていました。強いて言えば英語の場合 after all なんでしょうが、今ひとつフィットしない。すくなくとも after all は3分間に30回も使う言葉ではない。どうもこの方はこの「やっぱり」に、英語の after all の前にあるべき縷々とした議論を排除して、いきなり村落共同体に生きる人間の本能みたいなものに訴えるキーワード的意味合いを持たせているようなのです。「みんなが建前は別にして本音で期待しているとおりに」というような感じ。JA内部ではこれが説得力を持つのでしょうが(だから会長になられたのでしょうが)アウトサイダーにはとてつもなく違和感がありました。

企業でも社会でも、この「やっぱり」がはびこると改革は出来ないように思います。「やっぱり」日本式経営の良さも考えないと・・・、「やっぱり」公共事業の社会的役割も重要であって・・・、「やっぱり」郵便局の果たしてきた役割を考えると・・・、「やっぱり」間接金融主体の従来方式の良さもあって・・・、「やっぱり」日本の国際的な責任を考えると・・・「やっぱり」受験教育制度にもそれなりのいいところもあるし・・・エトセトラ・エトセトラ。すべて既得権益の擁護のために手垢の付くほど頻繁に使われてきた言葉ではないでしょうか。

はなしを農業に戻しますが、農業とは人間の歴史はじまって以来、もっとも基本的な産業でありました。産業である以上、人は生きるか死ぬかの覚悟で、その時代の最先端の技術を活用し効率性を追求することで生産活動に励んできました。広大な北海道の牧場もヨーロッパの緑の農地も、すべて人間が必死になって原始林を切り開いて「環境を変化させながら」造ってきたものじゃないですか。農業は環境に貢献するから非効率性が許されると言うことでは決してないのです。

全国各地の農村の生活風景を紹介するNHKの「ひるどき日本列島」をみていると、日本の農村では、本当にみんなが一緒に仲良く楽しく「園芸農業」をしているなあと実感します。趣味でやるぶんには結構なのですが、日本の企業では当たり前の国際競争のなかで命がけで競争にうち勝つぞと言う気迫が感じられないように見えます。

「やっぱり」を連発していると、やっぱり駄目になります。


2002年8月6日火曜日

〔再録〕荷風とお金と物価の悲劇

「荷風塾」(永井荷風ファンクラブ)学校通信 No.6
             荷風とお金と物価の悲劇

2002.8.6 

むかしの小説などを読むとき、お金の単位に苦労することがよくあります。「○○円だ」と書いてあっても、それがどういう意味を持つのか、高いのか安いのかよくわからない。特に荷風の小説にはお金が頻繁に登場します。そこで明治・大正・昭和の各年代を通じて貨幣価値がどう変化したのかを調べ、それを荷風の年表に組みこんでみました。さらに、毎年、荷風が稼いだお金、使ったお金、結果として金融資産残高はどう推移したのかなども表計算ソフトを使い大胆にも推定してみました。その一部が下のグラフです。とても面白いことが分かりました。



推計方法について

当時の物価の推計ですが、卸売物価指数については日銀の戦前基準の長期統計があり信頼できそうです。消費者物価については明治まではさかのぼれませんが、足らない部分は醤油やお米の値段で代用させ一応の数字が作れます。これで当時の価格水準は推測できるわけですが、その価格が「当時の人々にとって」どういう風に実感されたかは、当時の賃金水準を考慮する必要があります。結局、消費者物価基準、卸売物価基準、賃金基準の三つの基準で「一円の値打ち」を計算いたしました。この三つの数字を参考にしながら当時の文章を読むと、ぐっとわかりやすくなるようです(自画自賛)。

荷風の金銭的な収支状況については断片的ではありますが、たくさんの数字が残されています。税務署による所得金額の認定とか、敗戦直後の財産税の計算とか、不動産の売買金額とか諸々の数字が日乗に書かれています。吉野俊彦氏が『断腸亭の経済学』という面白い本でそういう部分をたくさん抜き出して居られますので、活用させていただきました。それらの要所要所の数字を押さえて、それが実現するような年々のキャッシュフローを推計すればいいわけです。となるとエクセル表計算ソフトの出番です。段階的接近を繰り返し、なんとか矛盾がないところまでつじつまを合わせました。計算表(エクセルファイル)は公開フォルダーに入れてありますので興味のある方はダウンロードしてください。

これらの数字からいろんな事が言えると思いますが、私にとって印象的だったのは、荷風は大正年代の末から(円本ブームに乗じて)ほぼ右肩上がりに自分の金融資産を増やし続けたにもかかわらず、それが物価水準とか賃金水準といういわゆる外的尺度で測ると、きわめてドラスティックな上下変動を示していることです。上に示したグラフでもおわかりいただけますが、絶対金額では戦前ほぼ安定していた荷風の資産残高は、昭和の初めのデフレ状況下では大きく購買力を上げ、荷風はきわめてお金持ちになったように感じたと思われます。でも以後経済はインフレに転じ年々財産の(物価賃金比較での)減少が続き窮乏感が強まります。敗戦直後、戦時中に書きためていた作品を発表しふたたび巨額の現金を手に入れるのですが、預金封鎖とインフレでまたもや(物価賃金水準からみて)極端な貧乏になるという具合です。

これは個人ではコントロール出来ないまったくの外部環境によるもので、金融資産だけが頼りの老人荷風にとっては精神的にとても厳しいものがあったと思われます。4回にのぼる空襲による罹災以上に、戦前戦後の経済変動は荷風に大きなストレスを与えたと考えられるのです。その影響が書いた作品にも現れてきているように思います。

文学もエクセルを片手に読むと一段と楽しくなります。

(参)荷風経済年表抄(余丁町散人作成) 

























2002年7月21日日曜日

〔再録〕荷風はやはり背が高かった! 2002.7.21


「荷風塾」学校通信 No5
School News
2002.7.21              余丁町散人
新発見
荷風はやはり背が高かった!ちょっとした「大発見」をしました。やはり荷風は背が高かったのです。下の写真がその証拠です。どうしてそうなるのか、これから説明します。


(写真をクリックすると大きくなります)






今までの定説
 松本哉氏による身長推計松本哉氏が荷風の身長推計を発表されるまでは、荷風は背が高いと考えられてきました。『日和下駄』の冒頭の「人並みはづれて丈が高いわたしは・・・」という印象的な文章が人々の頭のなかに「背が高い荷風」というイメージを定着させてきたのです。俗世間を一段低く見て辛辣な批判を続けた孤高の偏屈男であったことも「背が高い荷風」というイメージづくりを手伝ったものと思われます。わたしもそういう風に考えておりました。

ところが松本哉氏はその著『永井荷風の東京空間』のなかでその通説を真っ向から否定されました。現存する荷風の写真から(三ノ輪の浄閑寺の門に立つ荷風の写真)から荷風の身長は165センチと推計されたのです。みんなとてもガッカリしました。

ところが反論しようにも、松本哉氏はれっきとした証拠写真をお持ちですから、反論材料がなかった。みんな悔しい思いをしたと思います。でもご安心ください。新しい反論材料が出来たのです。
関口水神社の銀杏と鳥居
"Smoking gun" (動かぬ証拠)
ページの一番左上にある小さな写真をクリックしてみてください。これは荷風が昭和20年4月10日に描いたスケッチです。当時の荷風は偏奇館を焼け出され中野に移っていたのですが、4月10日、関口から早稲田を散歩します。水神社の境内から早稲田の町並みを描いたのがこのスケッチです。

小生はこのスケッチが好きで、一度同じ風景を写真に撮ってみたいと思い、最近水神社に行って来ました。そこで荷風のスケッチ通りの写真を撮ったのが左の写真です。ほとんど同じ風景です。

ところがこの写真を撮るのに意外にたいへん苦労しました。どうしても荷風のスケッチ通りにはならないのです。銀杏を写すと鳥居が見えない。逆に鳥居を写すと銀杏が入らない。鳥居の位置が低すぎるので相当高い位置からでないと荷風のスケッチ通りの眺めとはならないのです。

そこで神社の前にある踏み石に登り、デジカメを頭の上に高く掲げながら撮影したのが左の写真なのです。わたしの身長は175センチ。だから荷風が左上のスケッチが描けるためには荷風はわたしより、少なくとも5-10センチは、背が高くなければいけない計算です。

やっぱり荷風は背が高かったのです。大満足です。

ちなみに松本哉氏の写真推計ですが、同氏がお使いになった写真では荷風は門からちょっとだけ内側に立っているように見えます。広角レンズの場合、わずかな距離差で大きさが違ってきますので、実際より低く見えてしまう可能性が強いと思います。

半藤一利氏は昭和34年荷風の死に際し真っ先に駆けつけた人ですが、「市川署が葬儀屋に手配して届けさせた2500円の棺」は荷風には小さすぎて「無理矢理足を曲げて棺に入れた」と生々しく証言されています(『荷風さんと昭和を歩く』)。

われらが「大荷風」はやはり背の高さでも「大荷風」であったのです。

2002年7月8日月曜日

杉山和彦君のこと

2002.7.8

杉山和彦君のこと

杉山が死んでからちょうど4年になる。神戸港の埠頭での無惨な最期だった。理由はわかっていない。

杉山と友達になったのは、多分中学3年生か高校一年生の頃だろう。学校からのスキーに行くとき急行「ちくま」で同じところに座った。彼と一緒に座れて良かったと漠然と感じたことを覚えている。癖のある連中が多い学校だったが、杉山は芦屋のぼんぼんらしく品がよくって社交的だったから。スキー場でリフトから、彼がなんでもない緩やかな斜面でああ向けざまにひっくり返ったシーンも覚えているから、風景からして中学校のころ毎年行っていた野沢温泉ではなく、妙高か赤倉だったと思う。だったら高校一年生だったのだろう。

彼はぼくのことを「スマイリー」とあだ名を付けた。当時聴衆の方を向いてバンドを指揮することで人気があったスマイリー小原に額が似ているとの理由。カタカナのあだ名はちょっと格好が良くうれしかった。彼の交友範囲はいわゆる遊び人タイプの阪神間のぼんぼん連中であり、おかげでそれまでは遠くで見ているだけだったそういう連中とのつきあいも出来た。亡くなった田端強もその一人だった。田端は16歳の時に運転免許を取っていたので彼の運転で三人でよく遊び回った。車はそれぞれの親の車を順番に無断拝借するのだが、出来たばかりの名神高速をぶんぶん飛ばしたり、六甲山に上ったり、子供だったからそんなことで楽しかった。三宮近辺の、当時は不良のたまり場とされていたジャズ喫茶に杉山とよく行った。ふたりともウクレレを弾く程度で楽器は駄目だったが、不良の振りをするのが好きだったのだ。

大学になると杉山は慶応に行き、ぼくと田端は京都だったので別になってしまったが、夏休みなどは一緒に遊んだ。正月にいきなりぶらっと来て二人でドライブに出かけたのはいいけれど、西国街道を北に進むうちに調子に乗って「ぶんぶん」進みついに舞鶴まで行ってしまった。ロシアの貨物船が日本海に浮かんでいるのを見てさすがに遠くまで来たと心細くなり、そうそうに帰路に就いたが、帰りの雪道でパンク。杉山のお母さんの車を正月に持ち出していたので後で大目玉を食ったこともあった。

大学時代、杉山は原宿にアパートを借りていた。皇家飯店の横を入ったあたりだったが、当時から原宿は遊びスポットとして注目を浴びていた場所。住むところといいいでたちといい杉山はいっぱしの「遊び人」で、いろいろその方面の蘊蓄を聞かされたが、不思議なことに彼と女性を交えて遊んだ記憶はない。口や格好とは別に、女性にはシャイな人間だったと思う。卒業論文も見せてもらったが立派なものだった。就職が決まるとすぐ「財界」とかの経営雑誌を読み始め、財界内情についてとかいろいろ彼の「講義」を聴かされた。ウブで世間知らずのぼくにとって彼は「人生の先輩」であった。

卒業してから彼は化学会社に就職したが、しばらくして辞め親戚筋の老舗企業に移った。その会社の社長の娘と結婚したので、やがては跡を継ぐとの含みとのことだった。だが会社は奈良にあったので彼も奈良に転居し、田端は一転して真面目な大学の先生になったり、ぼくは外地に行ったりして、それまでのあそび仲間と頻繁につきあうことが少なくなった。葬式の時に仲間の一人が「杉山も可哀想に、奈良みたいなところに行ったから駄目なんだ。阪神間に居ればこんな事にならなかった」とぽつりと漏らした。

ぼくが外地から帰ってきて、ある理由で実家に出入りできなかったとき、「困っているときこそ友達だろう」と言って杉山はぼくと家内の関西でのロジスティックを世話してくれた。彼の会社は全国に工場を持っていたので東京には頻繁に出張してきた。その際よくぼくのマンションに泊まった。半年に一度ぐらいは会っていたのだろうか。いつも変わらない馬鹿話と自慢話をするなかであったが、ただ彼が社長を引き継いでからは、ちょっと座ったような目つきをしていることがあり、社長業のストレスの強さをかいま見る思いもした。

彼が亡くなる数ヶ月前、彼と神楽坂で飲んだ。ちょうどぼくが個人的トラブルを抱えていたときでつい愚痴っぽくなったら、杉山は急に反対サイドに立って感情的に説教をはじめた。腹を立てたぼくが「そんなこと言うやつは友達じゃない」といってしまい彼は一転して如才なく話題を変えたが、妙に気になった出来事だった。ぼくが抱えていた問題と同じ種類の問題を彼も抱えているのだと第六感で感じた。

2-3ヶ月たって彼から電子メールでぼくの書いた文章に対する感想を寄越してきた。誉めてくれていたのだが、いままで無かったことであり珍しいことだと思った。へんに真面目くさった文章でありこれも奇異に感じた。それから一ヶ月ちょっとして彼は死んでしまった。

困ったときこその友達だろうに! 最後まで弱みを見せなかった杉山と役に立てなかった自分が腹立たしく無念である。7月8日夜中、彼は車を出して、自宅のある奈良から楽しい子供時代を過ごした神戸まで彷徨ってきたという。そのとき彼の頭のなかには何があったのだろうか。



〔旧HP閉鎖により再録〕

2002年7月2日火曜日

ワールドカップ雑感(日韓関係)

2002.7.2


スポーツ観戦はそれほど趣味ではないんですが、さすがにワールドカップ期間中はテレビを見ることが多かったです。日本が勝つと大興奮。負けてしまうと悔しかった。でも同じ開催国である韓国が残っていたから韓国応援に切り替えました。見てみると韓国は強いですね。強豪イタリアには走りまくって辛勝し、優勝候補のスペインまで撃ち破ってしまいました。散人は韓国を応援していたので「非常に結構」だった筈なんですが、正直に認めますと、何か複雑な感情も芽生えてきたのも事実でした。「日本が負けたのに何で韓国だけが勝ち続けるの」とちょっと面白くなかったのです。散人ばかりじゃなく、多くの日本人が同じような感情を持ったといろんなところで聞きました。ちょっと由々しきことかもしれません。

考えますに、これは「嫉妬心」です。「嫉妬」と言えば、女性の方には失礼ですが、古くから女の専売特許みたいに考えられてきました。でも男にも嫉妬心は確実に存在する。もっとも観察してみますに男と女では嫉妬の現れ方がちょっと違うようです。女の場合「いいなあ、あんなのになりたいなあ」と願望の形で現れるのが多いのに対して、男の場合は「なんだ憎たらしい、いい思いをしやがってけしからん」と否定的な形で(足を引っ張るともうしましょうか)表現されることが多いようであります。もちろん女の方にも男のような嫉妬をもたれる場合もあり、逆もまた真の場合もあるのですが、なんかこんな感じがします。

嫉妬心がサッカーとか男女関係に留まっているかぎり大した問題ではないでしょう。けれど昨今この感情が社会問題、国際問題まで広く広がりつつあるような気がします。日本には江戸時代から「等しく貧しきを憂えず」という結果平等思想がありました。「みんな貧しくとも人並みである限り」特に不満はなく、自分の交際範囲や認識範囲が限られた範囲に留まっていた時代には、人々は結構幸せであったと思うのです。でもグローバル化、情報化の時代になるとそう言うわけでもなくなってきます。映画やテレビで見るばかりだった豊かな国の豊かな生活ぶりがより直接的に個人的に認識されるようになり身近なものとなってきています。いままで認識しなかった格差を認識する機会が増えたとも言えるでしょう。ならば「男の嫉妬心」に基づく摩擦は今後どんどん増加すると考えるべきでしょう。昨年の同時国際テロ事件の背景にも、貧しい国の豊かな国に対する嫉妬心があったとの見方があるのです。

また今回サッカーを見て改めて認識したことは、世界的に「ナショナリズム」がまだまだ健在だと言うことです。何十万人が街頭に繰り出し自国のチームを熱狂的に応援する。あのエネルギーに、たかがサッカーといえないような、ある種の不安を感じてしまいました。このナショナリズムが、グローバル化でますます燃え上がりやすくなっている上記の「男の嫉妬」感情と結びつくとどういうことになるのか、戦前のナチズムが裕福なユダヤ人に対する一般人の嫉妬感情から生まれ出たものであることを考えると、日本は明らかに妬まれる側に属している以上、空恐ろしいような気がします。

今回のワールドカップで韓国は、そのチームの体力、技術、それを応援する国民的結束力、全ての面においてその強さを示しました。こういう不安な世界であるからこそ、日本は強い隣人を頼りにするべきです。間違っても敵対側に追いやってはなりません。故高坂正堯が「歴史上のアングロサクソン常勝の秘密は常に強い相手を自分の味方に取り込んだから」と言っていましたが、現在の日本に当てはめて考えると韓国は強くなったからこそ日本の味方として取り込むべしと言うことでしょう。

散人が韓国に初めて旅行したのは1975年でしたが、当時の韓国の貧しさに驚きました。それに比べれば現在は驚くほど豊かな国になっており日本とほとんど変わりません。その意味で「気を遣うことなく話が出来る」相手です。
日本と韓国の二国間の歴史は、支配被支配を繰り返し長年に渡りいがみ合ってきたイギリスとフランスの歴史と似ています。でもいまやイギリスとフランスは、よきライバルではあっても、ほとんど共通の文化と価値観を共有し、お互いに尊敬しあい協力しあう仲となっています。やれば出来るのです。今後の日韓関係が目指すべきものは、現在のイギリスとフランスのような関係に他ならないと感じます。

2002年6月1日土曜日

日本国債格下げに立腹する阿呆どもの見当違い

2002.6.1


ムーディーズが日本国債の格付けを二段階引き下げたことで怒っている連中がいる。塩爺財務大臣は「(格付けは)民間会社が勝手にやっているだけで、だからといって政策の変更はしない」と「不快感」を露骨に示し開き直るし、経済界にもその妥当性を疑う声もある。新しい「A2」という格付けは先進国では最低であることはもちろん、チリ、ボツワナなどよりも低いと云うことで、さすがに誇りを傷つけられたらしく、マスコミ論調もそんな感じだ。日本は世界最大の貯蓄国で世界最大の債権国、経常収支黒字国なのに出稼ぎホステスの親元国やアフリカの最貧国よりランクが低いとはどうしたことだ、これはおかしいというわけ。でもちょっと待ってほしい。

繰り返すまでもないことだが、国債の格付けとは国の経済力の格付けではない。国債が間違いなく償還されるか、デフォルトの可能性があるかどうかという技術的な問題なのでである。現代日本のように、経済は一流でも政府と政治家が三流であれば、経済力が一流であるからこそ余計に(当てに出来る財源があるから余計に)「お上」が発行する約束手形は(国債)は踏み倒されるリスクがあるともいえるのである。

民間企業がビジネスする際に指標とするカントリーリスクのグレード評定にあたっては、その国の基礎的な経済力とともに、その国の政府の「借金はどうしても返す」という意志の強さの程度が重視される。70年代の中南米の経済危機では経済力よりむしろこれが問題となった。今の国債格付けにおいても同じことがいえる。日本政府に本気で借金を返す意志があるのかどうか、国民は確信が持てないのである。

何せ日本政府には数々の借金踏み倒しの前科がある。古くは鎌倉時代の徳政令。鎌倉幕府とご家人の莫大な借金はこれで帳消しにされた。江戸時代の大名も裕福な町人から借りるだけ借りて結局踏み倒した。江戸幕府は貨幣の金含有量を継続的に低下させることで己の借金を踏み倒した。明治政府も借金で戦争をして結局その借金をインフレで帳消しにした。第二次大戦後の預金封鎖やハイパーインフレによる借金の踏み倒し策も悲惨で記憶に新しい。戦時国債を無理矢理買わされた国民のお金は全て紙切れとなったのである。戦後のインフレとバブルも同じような性格がある。80年代のバブルで勝ち逃げをした連中は誰であるのか特定することは難しいが、一つだけ確実にいえることはバブルは日本政府に莫大な税収をもたらしたということ。それも現金でである。日本政府こそが真のバブルゲームの勝ち逃げ成功者、バブルの最大の受益者であった。

財務省は 今回の格下げは日本経済のファンダメンタルを反映していないと反論している。日本には膨大な個人金融資産があるとか、貯蓄投資バランスが巨額の黒字を示しているとか。でもこれは「政府の借金」を返すのに「民間のお金」を当てにしていることを改めて白状しているようなものではないのか。日本の個人金融資産を相続税で召し上げれば借金などすぐ返せると豪語した官僚がいたが、とんでもない話である。グローバル化の時代には国民の金融資産は国際的に移動が可能だ。資本が政府を選べる時代だ。民間は馬鹿政府の尻ぬぐいをするのにもう飽き飽きしている。

日本経済の歴史を少しでも勉強したものは、政府が日本の経済の潜在力が強いから国債の償還は大丈夫だと言うたびに、また日本伝統の「徳政令」か、或いはそのたぐいの国民収奪政策をやるつもりだなと警戒感を深めてしまうのである。今も昔も、日本の政府には「民のものは公のもの」という思いこみがある。いい加減に国民の財産を当てにするのはやめてほしい。日本政府の国債はやっぱりやばいと思う。

2002年5月5日日曜日

受験戦争が構造改革を阻む?





2002.5.5
今日はこどもの日。粽を食べて菖蒲湯だったかしら。あまり昔のことだから忘れてしまった。でもこどもの日ということで、教育について考えてみたい。このホームページの付属掲示板で教育問題が話題になって、とても楽しいおしゃべりだったんだけど(掲示板もときどきのぞいてくださいね)、そのなかでちょっと気になったことがあった。日本の教育システムが日本の構造改革を阻んでいるんじゃないかと思いついたわけ。もし本当だったら、これは深刻だね。一つの仮説だけれど、聞いてくれますか。

まず、今の受験中心の教育システムだけれど、その評価については議論が分かれるね。詰め込み教育こそ問題だから、もっとゆとりを持たせたカリキュラムにするべきだとする意見がある中で、それに反対する意見もあります。散人はどちらかというと現在の中等教育というのは相当いい線をいっていると思っている。若いうちは「ゆとり」なんって言わさずにがんがん詰め込みをするべきだよね。だって知識がないと考えることすらできないもん。考える力を付けさせる意味でも知識の詰め込み教育は意味がある。子供が「ゆとり」なんて言うのは10年早い。そう信じていたんだけれど、詰め込み式受験勉強もちょっと問題かなあといま考え直しはじめている。これは教育それ自体の問題と言うより、この教育(受験)システムがもたらす日本の経済社会への影響についてなの。

ご承知の通り、現在の受験戦争は相当激しいね。親も大変みたいだけれど、子供はもっと大変。かなりハードな勉強を相当期間続けなければ「いい大学」に入れない(らしい)。子供は遊びたい盛りだから、ふつうの場合、勉強はいやがる。それを親(特に母親)が無理矢理勉強させる。それ自体は大変結構なんだけれど、馬にニンジンのたとえじゃないけれど、子供にニンジンを見せびらかして勉強させるみたい。飴と鞭かな。「勉強しないとお父さんみたいにいつまでたってもうだつが上がらないよ」とかいうらしいから。それは致し方がないところもあるから、父親としては甘んじて許容するにしても、問題はニンジン(飴)の方ね。子供が「いい大学」にさえ潜り込むことができれば一生いい暮らしができる、今だけの辛抱よと教え込んで、子供がまたそれを信じてしまうらしい。

実際はそういうことはないんだけれど、そういう競争に一応勝ち抜いてきた日本社会のいわゆる中堅層(サラリーマンやお役人)は、あれだけしんどい受験戦争を勝ち抜いたんだからそれなりの「見返り」が生涯にわたって保証されて当然と考えるようになるみたい。その「見返り」というのが現行システムで享受できるいろんなフリンジベネフィットだと言うことであるからして、現行システムが変わってしまうと困ったことになる。「話が違う」という事態はどうしても避けなければならない。だからいかなる改革にも抵抗するものすごい保守的でマッシブな階層が大企業のサラリーマンを中心に形成されていくことになる。これはきっと受験指向の現在の教育システムのもたらす一番ネガティブな結果だと思う。

企業にはびこる体育会系のメンタリティーが、この「みんなの利益を守るために仲良く一緒にがんばろう」の動きをさらに強固なものとする。企業経営は当然「従業員第一主義」となりガバナンスが利かなくなる。諸悪の根元だな。

日本の中等教育制度は確かに世界に誇れるものがある。でもそれは所詮中等教育でそれ以上のものじゃない。一番の問題は、その子供のゲームのような中等教育での勝者に人生の特急券を渡す(と見なされている)現行の受験選抜制度。その意味で今般の中教審が発表した中間報告で、専門職養成のための文科系の大学院教育の充実を訴えたのは、ちょっと遅かったけれども、非常によかった。人生の特急切符というものがもしあるなら、それは子供にではなく大人になってから与えるべきで、その数ももっと少なくすべきだろう。大学生も大学院にはいるために勉強するようになるし、へんな選民意識もなくなるはず。

でもこういうことに真っ先に反対するのが、すでにシステムに潜り込んでいるいわゆる「エリート」たちなんだなあ。自分の立場がなくなると思うらしい。あなたもそうですか? やはり受験戦争が保守的な大量の「エリート」を作り出すという散人の仮説は当たっているみたい。

2002年4月5日金曜日

〔再録〕fj.books における楽しいお話。荷風の小説『来訪者』について、随筆『日和下駄』 についてなどなど

2002.4.5
fj.books における楽しいお話。荷風の小説『来訪者』について、随筆『日和下駄』
についてなどなど。新たな発見がいくつもありました。
永井荷風
------------------------------------------------------------------------------
投稿者(From) 余丁町散人
件名(Subject) 永井荷風
グループ(Newsgroups) fj.books
投稿日(Date) Sat, 29 Sep 2001 23:03:54 +0900
記事ID(Message-ID)
所属(Organization) Tokyo Metallic Communications Corp. -----------------------------------------------------------------------
<japan.life.seniorに書いたものだけど、こちらの方が適当なようなので>
吾輩が隠棲する余丁町というところは、新宿の街外れにしては開発が遅れた、やや雑
然とした街で、別段とり立てて自慢するほどのものはなにもないのですが、敢えてひ
とつだけあげるとすれば、この街にふたりの明治の文人が住んだことでしょうか。坪
内逍遙と永井荷風がそうです。
このうち坪内逍遙宅跡についてはすっと前から東京都教育委員会による看板表示があ
るのですが、荷風については長らく無視されており、その旧居跡を示す表示は余丁町
のどこにもありませんでした。ところが先週ようやく「永井荷風旧居跡」との立て札
が余丁町通りに建てられたのです。逍遙に遅れること実に十数年。でも熱狂的「荷風
ファン」を自認する吾輩にとってはまことに喜ばしいことで皆様にご報告したいと思
います。(教育委員会のえらい人は荷風なんて嫌いだったのでしょうね。「教育的で
はない」ということかな)
荷風が好きな人は、ほとんど例外なく年輩者。しかも男性と言われています。吾輩も
それを信じていたのですが、この前荷風について詳しい川本三郎の講演を聴きに行っ
たとき、聴衆に若い女性が結構多かったのには驚きました。最近荷風を見直す傾向が
顕著になっていますが、年輩者ばかりでなく若い女性にも理解されるようになってい
るらしい。まさに「後生畏るべし」ですね。(もっとも、日本近代文学の三本の柱は、
鴎外、漱石、それに「荷風」であると喝破した赤瀬雅子という比較文学の先生は女性
です。何事にも例外はあります)
でも、若い女性に理解者が広がったとしてもシニア世代にとっての荷風の魅力が減る
ものではありません。今度岩波から荷風の日記『断腸亭日乗』が改めて発刊されるの
も隠然たるファンが多いことを物語っています。ともあれ、徒然なるままに荷風散人
の文章にひねもす陶然と酔いしれるのは、吾輩の至福の暇つぶしであり、生活そのも
のとなっているのです。
すこし荷風について話しませんか。
--
余丁町散人 naoyuki_hashimoto@mac.com

2002年4月4日木曜日

〔再録〕ニュースグループ(fj.books) における楽しい談話  (荷風について、浅草について、岡山について etc.etc)

20024.4
Re: ふらんす物語
------------------------------------------------------------------------
投稿者(From) 余丁町散人
件名(Subject) Re: ふらんす物語
グループ(Newsgroups) fj.books
投稿日(Date) Tue, 20 Nov 2001 11:15:01 +0900
記事ID(Message-ID)
ようこそ!naoyukiさん!
------------------------------------------------------------------------
 Wataru Mizutani at mizutani@jrcat.or.jp wrote on 2001.11.18 10:19 AM:
>
>> 荷風は『フランス物語』を読んで感傷的すぎて「ひとり旅」を除けば
>> うんざりだったのすが、
『すらんす物語』の話が出たので、ひとつだけ。
ひとつだけといいましたが、もうひとつふたつ。
田辺聖子は荷風が大嫌いで、荷風の文章の中での女性蔑視(?)の言葉には「驚倒」
すると書いているのですが、彼女はそれでも『ふらんす物語』のなかの「祭りの夜が
たり」は楽しかったといっています。南仏のアビニオンで旅行者が女にスッテンテン
にされるお話ですが「恐ろしいのは南国の女だ」と荷風はすっかり恐れ入っています。
この辺が彼女のフェミニストとしての復讐心を満足させたようです。
「ひとり旅」は少々理屈っぽいところもありますが良いですね。最後に伯爵が「宮坂
のような変わった男、思想の病人が出てきたのは、すなわち日本の社会が進歩した複
雑になった証拠ぢゃないか。私は喜ばしいことだと思ふ」といってお終いになります
が、現在の日本はどうなんでしょうね。まだまだ「変人」の数が少ないようにも見え
ますが・・・。
--
余丁町散人 naoyuki_hashimoto@mac.com

2002年3月23日土曜日

クアハウスは楽しい



石和温泉に行ってきました
                 ..................
余丁町散人

年一回の人間ドック、今年は山梨県の石和温泉病院に出かけました。今まではずっと都内の病院での一日コースで能率的に済ませていたのですが、いまや時間がたっぷりある隠居の身、ちょっと遠いのが気になりましたが、せっかくだから温泉にでも入りながらのんびりと健康診断を受けようかと考えたもの。結果として大正解でした。

クアハウスは楽しい

富士山も綺麗に見えた

併設のクアハウスはとても快適で楽しめましたし、受診者本位のゆったりとした検診方式もなかなか良いものでした(都内の病院では受診者が自分でいろいろの診察室を巡回する方式をとっていますが、ここでは受診者は座ったまま待っておれば看護婦が来て案内してくれます。とてもいい気分)。ただ食事の量の多さにはちょっと閉口しました。「温泉病院」たる所以なのでしょうが、おかげで当分節食を続けなければならなくなりました。

帰りは時間があったので、河口湖、山中湖経由、一般道を通って帰りました。市街地を離れると日本の自然は十分残されており、咲き始めた花木が混じる山の緑は美しく、所々に散在する山の集落の風景も一つ一つちがった趣があり、とてもいいドライブでした。

でも東京に近づくと交通量が増え、街の風景も暑苦しくなってきます。一番渋滞したのはいわゆる郊外の住宅地といわれるところ。みんな車で移動するからでしょうか、極端に渋滞していました。

わが家に帰り着いたのは夕刻。昨日吹いた春一番のおかげで先週満開になったばかりのハナモモは相当花を散らしておりましたが、幸い遅咲きのハナモモ(白色)は影響を受けずにおり、満開の姿で我々を待ってくれていました。猫もいるし、やっぱりわが家は落ち着きます。

つらつら思うに
***

道中つらつら考えることがありました。一つには、日本の宿泊施設での食事の量の多さについて。いまや多くの客は「泊まる」為に旅館ホテルを利用します。でもいまだに日本の旅館では食事にこだわりすぎているような気がします。この十年で旅館の売上は4割減との統計もありますが、ニーズの変化を読み間違っておれば当然のことでしょう。

もう一つ考えたことは、日本の自然の素晴らしさにあまりにも対照的な市街地の景観についてです。広告、電柱が無秩序に立ち並び、はっきりいって醜い。日本もやることがいっぱいある。富士山の自然が美しかっただけに尚一層この思いを強くいたしました。

ちょっと「隠居の小言」みたいな近況報告となりました。

2002年3月20日水曜日

〔再録〕荷風とお岩さん


「荷風塾」学校通信
School News
2002.3.20 学校通信 No4
荷風とお岩さん
    余丁町散人「荷風塾」学校通信の第4号です。今回は余丁町からちょっと離れて、荷風と於岩稲荷の関係について。お岩さんといえば四谷左門町の田宮神社。余丁町から目と鼻の先です。当然荷風もここにお参りしたことがあるはずと睨んでいたのですが、違うんですね。別のところのお岩さんだったんです。これが今日のお話。

散人は年甲斐もなくお化けのお話が好きなんですが、荷風はさすがは合理主義者、あまりその類のお話は書いていません。でもその荷風にも「お化け小説」に近いものもがあるのです。それが昭和19年に書かれた小説「来訪者」。お話は、老齢期に達した作家(荷風)が偶然文学を語り合える二人の若い友人に巡り会う。しかし、結局彼らに裏切られ、失望落胆するというものですが、主人公の老作家(荷風)が書いた『怪夢録』というお化け話の原稿が重要な小道具として使われているし、また悪役になる若者は(その罰として)お岩稲荷のそばの越前堀の隠れ家で人間離れした淫女に苦しめられるという、荷風にしては珍しく「お化け小説」の色彩が強いものです。とても面白い。

ところがこの小説の評判は決してよくありません。為にするために書かれた陰険な個人攻撃の文書と見なされることが多いようです。確かに、この「悪い若者」のモデルとなった平井程一(アーサー・マッケンの翻訳者として知られている人物)はかなり迷惑を被ったようです。でも実際の平井程一は博覧強記の立派な人物であり、いまでも彼を師と仰ぐ人々は少なからず存在するようで、それらの人たちによって、平井程一先生を攻撃した荷風はとんでもない「陰険爺」だと書かれる、というのが実態のようです。




紀田順一郎『略して記さず』では
 たとえば平井程一に私淑した紀田順一郎は『略して記さず』と題した文章の中で次のように書いています。

<引用はじめ>
「荷風は『おかめ笹』という滑稽小説があるように、本来ユーモア感覚に富んだ人だが、この作品はジョークにもならなかった。終わりに近い部分で荷風が「京橋区湊町は越前堀のお岩稲荷の側」にあるという二人の隠れ家を探索に行く場面があるが、お岩稲荷は昔から四谷左門町にあるものと相場が決まっている。こうした初歩的なミスが生じたのは、是が非でも二人の人物を淫靡かつ矮小な世界(ここでは怪談)に押しこめることで頭がいっぱいだったからであろう。お常をお岩に見立て、真夜中になると人が変わって白井を追い回すという趣向により、荷風は単純な復讐心を満たしているのである。(中略)要するに、あらゆる意味で荷風の執拗な復讐心の現れた作品というしかない」
<引用終わり>

痛烈ですね。散人もお岩稲荷は四谷の左門町にだけあるものと思っていましたので、越前堀というのはお話を面白くするために荷風が設定したフィクションだろうと考えていました。しかし、昨年ネットニュース fj.books で久留さんという方から、当時お岩稲荷は越前堀に移転していたので、この点については荷風が正しく「初歩的なミス」をしたのは紀田順一郎の方だと教えて貰いました。いやあ、嬉しかったですねえ。さすがにネットの世界は広大です。いろんな物知りがいる。

早速、四谷の田宮神社(お岩稲荷)に赴き縁起を調べますに、その通りだと判りました。お岩稲荷の始まりは四谷左門町で寛永13年(1636年)に遡りますが、文政8年(1825年)の東海道四谷怪談の上演以降、歌舞伎役者を中心に参拝客が増え「於岩稲荷」として有名になります。しかし明治12年の火事で社殿が焼失し四谷から越前堀に移ったのでした。それが第二次世界大戦でまた焼失し、今度は四谷左門町、新川2丁目(越前堀)二カ所に再建したということのようです。荷風が「来訪者」を書いたのは昭和19年ですから、その時は於岩稲荷はまさしく越前堀にあったのでした。

散人はこの度「来訪者」をもう一度読んでみましたが、「筆誅の書」という印象は受けませんでした。東京下町の風景の描写もしっとりしていて、さすがは荷風とうならせますし、老作家の青春を惜しむ気持ちが、去っていった二人の若い友人への暖かい感情と重なって、むしろ荷風は二人を懐かしんでいるのではないかとさえ感じたくらいです。平井呈一氏と実際に会って話を聞いた秋庭太郎によれば平井程一本人は荷風をいっさい恨んではいなかったそうで、なんだか肯ける気がいたします。
荷風と越前堀のお岩さん
  『日乗』 S10.10.29
最近また『断腸亭日乗』を読んでいて、荷風が実際に越前堀の於岩稲荷に参拝していたことも判りました。昭和十年十月二十九日の記述です。

「晴れて好き日なり。・・・風静かなれば歩みて新大橋に至り船に乗りて永代橋を過ぎ越前堀の岸に上る。・・・河岸通りに聳える三菱倉庫(注:あとで荷風は住友倉庫と訂正している)の裏手に出でお岩稲荷に賽す。震災後この淫祠もいかがなりやと思いしに堂宇は立派に新築せられ参詣の人絶えず。・・・・大正のはじめ頃この淫祠の門前筋向かいの貸家にたしか荒川とやらいいし淫売宿あり。若き後家人妻など多きときは七八人も集いいたることもありき。今日もこのあたりの貸家には囲い者らしきもの多く住めるがごとし」

さすがは荷風です。十年近く前に散歩の途中に観察した場景をしっかり小説に再現しているのです。荷風の実地調査の綿密さにはいつもながら驚嘆いたします。

ちなみに散人の実地調査の結果では、東京には於岩稲荷と称するものが全部で四つあるようです。二つの田宮神社については上に述べた通りです。三つ目は四谷左門町の田宮神社の向かいに陽運寺というお寺で、その境内に「於岩稲荷」が祀られています。田宮神社が越前堀に移転していた間、留守を守ってきたのでしょう。更にもう一つ(四つ目)は四谷三丁目のスーパー丸正の入り口にあるセメントで作られた「於岩供養水かけ観音」です。買い物客が出入りの度に水をかけてお参りをしているので、ここのお岩さんが四つの中で一番「参拝客」で賑わっています。

左に掲載している写真は越前堀のお岩さんのものです。四つ全部のお岩さんの写真はアルバムに作っておきましたので下のリンクからご覧ください。

<追記 2002.8.15>
上記に引用した紀田順一郎氏の文章は荒俣宏編著『大都会隠居術』(1996)における引用を引いたもの(孫引き)です。しかし今般『紀田順一郎著作集第7巻』(1998)を入手、収録されている「日記の虚実 略して記さず」および「永井荷風ーその反抗と復讐」を調べましたが、同じ文章とはなっておらず「初歩的なミス」のくだりは入っておりません。荒俣宏氏は多分最初に出された『日記の虚実』(新潮選書1988)から引かれたものと推察しますが、その後紀田順一郎氏はその部分を書き改めておられます。

四つのお岩さん

2002年3月17日日曜日

「視点コラム」の再開(あわせて「猫に小判」考)

2002.3.17


退職して一年になる。ちょっと昔が懐かしい感じもしないではない。一番残
念なことは在職当時に毎月書いていた「視点」というコラムが書けなくなっ
たことだろう。今般、散人のホームページの中に過去の視点コラムを収録す
る作業を行ったが、昔の自分の文章を読み返して無性に懐かしくなった。や
はり無い知恵を絞って、考え考えして書いたものだけに、愛着がある。さら
に歴史記録という面もあり、今読み直してもそれなりに興味深かった。とい
うことで、基本的には自分のためにではあるが、考えること書くことを続け
てみようと考えた。あと十年生きれば、その時にもう一度読み直して見よう。
その時、昔の自分の馬鹿さ加減を嗤えるぐらいに、知的に成長を続けること
が出来ればいいなと思う。

再開第一回目のタイトルに、「猫に小判」と書いた。隠居の身であるから少
々ふざけても怒られることはない。散人は猫が好きで人生のほとんどを猫と
生活したためか、猫にかなり影響を受けた。前生は猫ではなかったかと思う
ときもあるくらいだ。よって猫の考えていることは相当理解できるつもりだ
が、それでもよく分からないときがある。いわんや普通の人には理解できな
い。だから猫はなにも考えていない動物だと思われ、ハウツー本には「ネコ
にも出来る・・・」とかのタイトルが付く。たいへん猫に対して失礼だ。
最たるものは「猫に小判」ということわざだろう。ものの価値が分からない
人には値打ちのあるものを与えても無駄との意味に使われる。ネコは馬鹿だ
ねえ、「かつお節」をやれば喜ぶが、もっと価値がある小判は値打ちが分か
らないのでそっぽを向く、というのだ。

でも本当にそうだろうか。小判は確かにお金としての価値があるのだけど、
使用価値がある財サービスと交換できることではじめて値打ちがあるわけで、
小判も「かつお節」と交換してはじめてメリットが出てくるということが大
切。でも時として人間はそれを忘れ、小判自体を保有したいと並外れた情熱
を注ぐことがある。でもみんながそれをやり出すと不況になる。猫の方が頭
がいい。
現在の日本の不況でも同じ現象が見られる。不況がデフレを加速させ、貨幣
を保有しているだけで貨幣の実質価値が増加する時代だ。そういう状況では
誰もお金を使おうとは思わない。人々は投資したり消費したりして自分の保
有する貨幣を現実の価値「かつお節」に代えることに消極的になり貨幣のま
まで保有しようとする。それが更に不況を悪化させる。

こういう状況に対する処方箋をいち早く提起したのがケインズであった。ケ
インズは『一般理論』において「人々がみんな月をほしがり、月が一つしか
ない場合、人々は失業する。そういう場合は月の代わりにまるいチーズを大
量生産して人々に(月だといって)与えるしかない。中央銀行が文句を言え
ば国有化するのだ」と書いた。もちろんケインズの言う「月」とはお金のこ
と「まるいチーズ」とは増刷された紙幣のことである。ケインズが「流動性
の罠」と呼んだ状況に置いては、今も昔もインフレ政策でしか不況からの脱
出は出来ないのである。数十年前から指摘されていることで、それ程難しい
理屈ではない。

日銀の量的緩和の是非をめぐる議論がこの二三年続いていたが、ようやく日
銀は昨年の春より金融緩和の方向に舵を切った。量的緩和をはじめているの
である。一大決断であった。いまだに「インフレターゲット論の是非」につ
いて議論をする人を見かけるが、いささか過去の議論である。いまや大勢は
決しているのだ。実体経済に影響を及ぼすまでには時間がかかろうが、日本
はゆっくりと量的緩和による不況脱出の方向に進みつつある。これを間違え
てはならない。その認識のもとに、量的緩和に伴い不可避的に起こるインフ
レと円安への対応を、今から準備しておく時期に来ているのである。

最後に近況報告。隠居生活の自由気ままさはとてもいいものです。ときには
気の毒がられることもありますが、そういう人にはこのありがたみは「猫に
小判」なのでしょうね。

余丁町散人(橋本尚幸)

2002年3月9日土曜日

〔再録〕荷風はどこで幸徳秋水の囚人馬車を目撃したのか?


「荷風塾」学校通信
School News
2002.03.09学校通信  No.3
荷風はどこで秋水を見たのか
     余丁町散人「荷風塾」学校通信 No.03 です。引き続き余丁町関連の話題で、今回のテーマは「荷風はどこで幸徳秋水を乗せた囚人馬車を目撃したか」と言うこと。

前回も触れましたが、当時日本きってのハイカラ男だった荷風が欧米から帰国後、急に文明開化に背を向けて江戸指向を強めていくきっかけに幸徳秋水事件があります。幸徳秋水とは明治43年年6月いわゆる大逆事件に連座して検挙され、天皇暗殺計画の主謀者として明治44年1月死刑を宣告され、24日処刑された明治の社会主義者ですが、荷風が住んでいた余丁町のすぐ裏にある市谷監獄に収容されていたのです。荷風の随筆「花火」の中に荷風が秋水を目撃する有名なくだりがあります。次の文章です。

「明治四十四年慶應義塾大学に通勤する頃、わたしはその道すがら折々市ヶ谷の通りで囚人馬車が五六台も引き続いて日比谷の裁判所の方に走っていくのを見た。わたしはこれ迄見聞した世上の事件の中で、この折程云うにいわれない厭な心持ちのしたことはなかった。わたしは文学者たる以上この思想問題について黙していてはならない。小説家ゾラはドレフュー事件について正義を叫んだため国外に亡命したではないか。然しわたしは世の文学者とともに何も言わなかった。私は何となく良心の苦痛に耐えられぬような気がした。わたしは自ら文学者たることについて甚だしき羞恥を感じた。以来私は自分の芸術の品位を江戸戯作者のなした程度まで引き下げるに如くはないと思案した。」

これは荷風の転向のきっかけを説明するものとしてよく引用される有名なくだりです。これに対して、これは荷風のポーズであるとかいろいろ議論もあるのですが、散人の興味は、あくまでも「荷風は秋水をどこで見たか」という点でした。


囚人馬車と荷風の通勤経路
  市電路線図と坂道がポイントこれについては、いままで何となく曙橋の住吉町交差点あたりと考えていました。ところが最近当時の東京市街地図を手に入れたので検証してみたところ、考え違いをしていたことがわかったのです。

まず囚人馬車が日比谷に行く経路ですが、当時の市ヶ谷監獄は今の台町にありました。しかし台町坂はまだなかったので馬車は安養寺坂を下り曙橋商店街から靖国通りに出て左に曲がることになります。問題はこの次で、日比谷に行くためには津守坂を上がるルートと本村町を右に回って四谷見附に出る二つのルートがあります。でも当時の津守坂は非常に狭くとても馬車が通れないようであり、やはり本村町右折の線でほぼ間違いないと判断できます。

つぎに荷風ですが、余丁町から慶應義塾に行くのに当然市電に乗ったわけですが、当然靖国通りの住吉町交差点で電車に乗ったはずと散人は考えておりました。だから秋水を目撃したのも住吉町と思っていたのですが、今回調べてみて、実になんと当時の靖国通りには市電が走っていなかったことがわかったのです。荷風は市電に乗るためには四谷見附まで行くか、市ヶ谷見附まで行くか、いずれにせよ住吉町から相当歩いていたことがわかりました。

荷風はどちらの停留所を使ったかですが、両停留所とも余丁町からの距離はほとんど同じです。でも重要なことは坂です。四谷見附に行くには(徒歩ですからいろんなルートが考えられますがいずれにせよ)かなり急な上り坂を登らないと行けない。それに反し市ヶ谷見附の停留所は左内坂を下りた低地にあったと地図に書かれており、余丁町/住吉町から下り坂をだらだらと下って行けば着く。当然荷風は市ヶ谷に行ったと思われます。

ということで馬車と荷風の辿った道筋ははっきりしてきました。よって両者の接点は「住吉町から本村町までの間の靖国通り上のどこかである」ということになります。でも、正確にどの地点で出合ったかということは、まだはっきりしません。
再び荷風の文章に戻って
 市ヶ谷本村町に立ちこめる地霊
ここで荷風の文章をもう一度読むことにしました。荷風は「日比谷の裁判所の方に走っていくのを見た」と書いていることが重要であると思います。靖国通り(市ヶ谷の通り)上で馬車が「日比谷の裁判所の方に」行ったと表現できる場所といえば、どうしても本村町の交差点一カ所ということになるからです。荷風は通りを市ヶ谷見附の方角に歩いていた。馬車は荷風を追い越して、本村町を右折し日比谷の方角に向かって坂を上って行った、ということになるのです。

荷風がこの重要な「思案」をしたという本村町は、もと尾張藩の上屋敷でした。その後、陸軍士官学校となり、陸軍参謀部がおかれ、現在は防衛庁の新庁舎がそびえています。極東軍事裁判もここでやりました。三島由紀夫の自決場所としても有名です。なにか恐ろしい地霊がこの付近に立ちこめているような気がいたします。

---------------------
左の写真は靖国通り本村町丁字路を四谷見附側から見たところ。荷風と囚人馬車は左からやって来た。正面は防衛庁の新庁舎。
----------------------
このたび川本三郎の『荷風好日』が発売されました。同氏がこれまで雑誌などに発表されたエッセーをまとめたものですが、なかなか楽しめます。散人のコメントを掲示板に載せました。下のリンクです。

川本三郎『荷風好日

2002年3月2日土曜日

余丁町便り (No.004)


余丁町便り (No.004)
                 ..................
余丁町散人

いよいよ春ですね。カブリオーレの季節です。車の幌を全開にしてドライブしました。風が暖かく、とても気持ちが良かったです。

北の丸公園を久しぶりに訪れました。マンサクと寒緋桜がとてもきれいに咲いていました。ハクモクレンの蕾はかなり大きくなっていましたから、もう一週間ぐらいで咲くのではないでしょうか。コブシの蕾はまだ小さく、咲くにはもう少し時間が掛かるみたいです。寒桜はもう葉をつけて葉桜になっていました。

わが家の紅梅は先週みごとに花を咲かせましたが、もうかなり散りかけています。ヒヨドリ、ムクドリ、シジュウカラがかわるがわるやってきて、梅の花を食べるから。

この季節はほとんど毎日花の様相などの景色が変わります。駆け足で春がやってくるのですね。


北の丸公園のマンサク

HPに視点コラムを

住友商事勤務時代に冊子「経済動向」に毎月連載していた「視点」というコラムのバックナンバーをHPに掲載しました。もう既に昔の話であり、あまり参考にはならないと思いますが、散人にとってはとても懐かしく、今回の収録に当たりコラムごとに読み返してみて感想やコメントを追記いたしました。当時はそれなりに一生懸命考えて書いたもので、いま読み返してみると恥ずかしくなるようなものもありますが、その時々の雰囲気を残しているものも多くあり、原文には手を加えず収録いたしました。自分史的な様相を呈しておりますが、ご笑覧いただければ幸いです。
なお、視点の古い分(96年から98年まで)についてはアップルの iTool ではなく自分でHTMLで別のサイトを作りました。テキストばかりのページですが、ちゃんと目次と本文のリンクが動きます。それをメーンサイトとリンクさせました。不細工なものですが、全部自家製です。何かプラモデルを作った子供のように喜んでおります。

神保町めぐり
***

北の丸公園に駐車してから神保町に行きました。東京堂書店で出たばっかりの川本三郎の『荷風好日』を購入。昨日までは平積みにしてあったのがきょうはもう一冊しか残っていないとのことで、最後の一冊を手に入れることが出来ました。荷風の人気恐るべしです。

同じ東京堂書店で坪内祐三と紀田順一郎のサイン本が置いてあり、ちょうど買いたかった本でもあり即購入。最近はアマゾンのオンライン書店で本を買うことが増えていますが、このようなサイン本などが買えるのはやはり神保町ならではです。

そのあとスヰートポーヅで餃子を食べました。この店、すずらん通りにありますが、戦前満州帰りの人が東京で開いた餃子店です(下の写真)。本場の大連で修行を積んだだけあって、なかなか美味しいとの評判。こんなお店が残っているのも神保町の良いところかも知れません。

再開発で神保町も町並みは大きく変わりつつありますが、たまに来るのもいいもんです。


2002年2月17日日曜日

余丁町便り(No.003)



余丁町便り(No.003)
                 ..................
余丁町散人

わが家の遅咲きの紅梅がようやく少しずつ花を開かせはじめました。まだ満開にはほど遠い状況ですが、春を感じさせます。写真を入れておきます(クリックすると画像が大きくなりますよ)。

このウメはかなり歳をとった樹で、ムシなんかがついて、いろいろたいへんでした。そのへんの苦労を Gardening のページに書いておきました。ご笑覧ください。

わが家のウメ

HPの作業状況

一月から作成に取り掛かっているホームページも、だんだん形をなして参りました。最初はホームページ作成専用ソフトを使用して悪戦苦闘していたものですが、あまりに複雑でそうそうに諦め、アップル社のサイトで提供されている簡易ツールを使うことにしました。すると、とたんに作業がはかどり、いま何とか形を整えつつあります。

家内の家族がフランスからアクセスしてくれましたが、当然ながら日本語表示が読みとれないと言うので、英語版のサイトメニューも付け加えました。ヘッダーの一番最後のボタン(ENGLISH) で英語表示に変わります。
去年から散人は、Net News という電子会議システムに参加するようになっています。なかなか興味深いものです。NetNews Articles というボタンを押していただくと散人の投稿状況が分かります。ジャンルは政治経済から、グルメまでいろいろです。お覗きください。


「荷風塾」
***
世話人:散人
「荷風塾」というのをこのホームページに作りました。詳しくは「荷風塾」というボタンを押して「荷風塾 学校通信」というレターをお読みください。散人は本当に荷風が大好きなのです。荷風のことを話し出すと何時間も続いてしまします。そんな荷風に対する思い入れをこの「学校通信」でお伝えしたいと思います。これを肴に、更なる荷風談義を、ホームページ付属の掲示板で続けようとの魂胆です。

掲示板に書き込みをしてくださる方も、ぼつぼつ増えてきました。ありがとうございます。ホームページをご覧になられたら、ついでに掲示板に一言お書きいただけると、とてもうれしく思います。




2002年2月16日土曜日

〔再掲〕わたしの阪神大震災

わたしの阪神大震災〔再録〕

六千数百人の命を奪った阪神大震災から5年。個人的にも忘れることが出来ない事件であった。ちょうどそのとき関西に用事があり、宿泊していた西宮の両親宅で地震に遭遇したのだ。寝ている上にタンスが倒れてきて、更にその上に屋根が落ちてきた。身動きがとれず、土埃と屋根の重みで息も出来ない。右足の膝から下だけは、わずかに動いたので、体を少しずつその方向にずらして行き、最後は無我夢中で一気に脱出した。抜け出たところは崩れた屋根の上で、頭上には一面の星空があった。

それから罹災者生活が始まったが、余震が続く夜中、手帳に書き付けた「死なないためには」と題するメモが残っているので紹介したい。1)タンスの下では寝ないこと。どんなことをしてもタンスは必ず倒れる。2)ボロ家には住まないこと。古い家は例外なく壊れてしまった。3)水を確保すること。食べ物なぞはなくとも三日ぐらいは平気だが、水がないと本当にどうしようもない。井戸があれば一番よい。

この三点を心に決めて、交通手段の復旧と同時に東京に帰ってきた。しかし、以来5年、ひとつも実行できていない。寝ている部屋の壁には相変わらず本棚がある。住んでいるところも古い木造住宅だ。井戸を掘ることにいたってはだれも冗談だと思って相手にしてくれない。なぜ実行に移せないでいるのか。それは経済的な問題である。タンスのない広い部屋にも、頑丈な家を建築するにも、井戸を掘るにも、たいへんなお金がかかる。日本では最も基本的な「死なない」ことが、きわめて高くつくのである。

日本の個人金融資産が1300兆円だとか、GDPは世界二位だとか、日本はえらくお金持ちの国であるかのような錯覚がある。だからODAも大盤振る舞いだ。新年の各紙の社説にも、もう経済成長を追い求めるのはやめよう、生活の質の方が大切だ、という論調が目立った。でも大部分の国民が地震ですぐ壊れるような家に住んでいて、どうしてそんなことがいえるのか。生活の質は物質的な裏付けがあってはじめて得られるものだ。ゼロ成長でもかまわないと言うには、はっきり言ってまだ十年早いのである。少子化が進み、ひ弱な若者が増え、経済成長率の低下は不可避とする議論があるが、それにも同意できない。

阪神大震災の話に戻るが、地震の直後の瓦礫のなかで、子どものような若い婦人警官がひとりで、信号機が停止した街路の交通整理をしているのを見た。怪我した家族を車に乗せた男が大声で叫びながら猛スピードで交差点に突っ込んで来るのだが彼女はいっさいひるみを見せなかった。以来、筆者は若者と女性の悪口は言わない。労働力問題は若年層と女性の就業率を上げることで十分対応できる。

(橋本尚幸)

2002年2月13日水曜日

〔再録〕なぜいま荷風なのか? 高齢化社会と荷風


「荷風塾」学校通信
School News
2002.2.13創刊号      世話人/発行人 余丁町散人
「荷風塾」を開きました。
       余丁町散人
われらの荷風先生がお亡くなりになられてから早くも40年以上が経過しました。亡くなられたのは昭和34年4月29日。東京の東、市川の侘びしい住まいで、一人で血を吐いて死んでいるのを、朝仕事に来た家政婦のお婆さんが発見したのでした。

最後まで偏屈に一人暮らしを続け、胃潰瘍であったにかかわらず病院にも行かず、亡くなるその日にも近所の安食堂で「甘くてべちゃべちゃする」カツ丼を平らげられ、その夜の大往生でありました。先生の逝かれた小さな6畳間には家具らしい家具もなく、散らかり放題で足の踏み場もなく、駆けつけた人たちの目をひそめさせたと言うことです。

なんという壮絶で、格好のよい死に方だったのでしょう。最後までご自分のライフスタイルを守られ、周辺から疎まれながら逝かれたのは、さすが憎まれっ子荷風と賞賛の念を禁じ得ません。

われら老人は、所詮世間の嫌われ者であります。同じことなら先生のように格好良く生きて、壮絶に死ぬことを目指して、みんなでお勉強し、修行したいと思います。よって「荷風塾」というものを作ったものです。

塾長はもちろん荷風大先生。場所はこのホームページについている掲示板。先生を肴にしていろいろおしゃべりをしませんか。そのおしゃべりの材料をこの「荷風塾 学校通信」で提供していきたいと考えます。

宜しくご贔屓の程お願いいたします。

なぜいま荷風なのか?
       高齢化社会と荷風川本三郎が荷風の話をするというので聴きに行ったことがあります。いやすごかった。川本三郎の話もさることながら、聴衆の平均年齢。ほとんどが散人よりももっと爺さんだったのです。荷風ファンは爺さんが多いと改めて実感いたしました。そういえば神田の古書店街では一番高く売られている古本は荷風の本だと聞いたことがあります。荷風が好きなのは高齢者。日本の資産は高齢者層に偏在している。かれらは余り消費はしないので経済評論家と称する人たちからは困りものだといわれているが、好きなものには金に糸目を付けない。だから荷風の本が高くなる、ということのようです。

荷風が若いころから既に自分を老人に見立てる傾向がありました。老人を否定的に見る実利第一主義の時代の中で、荷風はいわば老人の美学を追究したともいえるでしょう。老いてますます不良ぶりを発揮したのもうれしいことです。荷風は我ら老人たちの希望の星と言えるのではないでしょうか。日本の高齢化社会はいま始まろうとしています。よって自ずと荷風ファンも趨勢的に増え続けざるを得ません。まことに喜ばしい限りであります。

いま急速に高齢化が進んでいる中、テレビなんかで高齢者の生きがいはどう見つけるかとのテーマで番組が組まれたりなんかしております。でも散人に言わせれば馬鹿なことであります。もう何十年も前に永井荷風先生が答えを与えてくれているではありませんか。みんなが荷風みたいに不良老人になれば老後の人生もスリリングでまた楽しくなるのです。簡単なことであります。

でも荷風先生のライフスタイルは、昨日今日の付け焼き刃的な修行ではとても真似できるものではありません。何せ年期が入った不良生活です。その意味で、いまの若い世代も今のうちから荷風先生の生き方を勉強し、修行を積み重ねる必要があります。小さいときから始めておかないととても「大荷風」みたいには成れません。だからお若い方もぜひご一緒にわいわいやりましょう。
荷風旧居(断腸亭)跡
     新宿区余丁町
散人が住んでいる新宿余丁町には荷風が住んでいた断腸亭跡があります。新宿区の史跡に指定されたとかで、ようやく最近になり看板が立てられました。左の写真です。

都営地下鉄新宿線の曙橋駅から台町坂を抜弁天に向けて登り切ったあたりです。ビオセラ・クリニックという診療所の前に「断腸亭跡」との看板が出ていますが、正確にはここは永井荷風が入江子爵に売り払った土地であり、実際の断腸亭はその裏、つまりいま郵政省の宿舎が建っている地所の後ろあたりとなります

つい最近「メゾン・ド・ピュア」という変な名前の女性専用マンションが、まさに本当の断腸亭跡に建てられ、住まれている若い女性の方々の通勤通学で、一時はうらぶれていたこのあたりも、にわかに華やかになってきました。元祖助平爺を自認する荷風の霊は、さぞや喜んでいることと推察いたします。なによりの供養だと思います。

第一回はこのへんにします。続きをお楽しみに。

(下にいくつかの荷風と余丁町に関するリンクを付けました。「荷風のいた風景」とは松本哉の文章です。なおロゴと写真はクリックすると拡大画像が見られます)

断腸亭日乗(摘録)牛込抜弁天郵便局「荷風のいた風景」

〔再録〕永井荷風と余丁町

創刊号 2002.2.13     世話人/発行人 余丁町散人

われらの荷風先生がお亡くなりになられてから早くも40年以上が経過しました。亡くなられたのは昭和34年4月29日。東京の東、市川の侘びしい住まいで、一人で血を吐いて死んでいるのを、朝仕事に来た家政婦のお婆さんが発見したのでした。

最後まで偏屈に一人暮らしを続け、胃潰瘍であったにかかわらず病院にも行かず、亡くなるその日にも近所の安食堂で「甘くてべちゃべちゃする」カツ丼を平らげられ、その夜の大往生でありました。先生の逝かれた小さな6畳間には家具らしい家具もなく、散らかり放題で足の踏み場もなく、駆けつけた人たちの目をひそめさせたと言うことです。

なんという壮絶で、格好のよい死に方だったのでしょう。最後までご自分のライフスタイルを守られ、周辺から疎まれながら逝かれたのは、さすが憎まれっ子荷風と賞賛の念を禁じ得ません。

われら老人は、所詮世間の嫌われ者であります。同じことなら先生のように格好良く生きて、壮絶に死ぬことを目指して、みんなでお勉強し、修行したいと思います。よって「荷風塾」というものを作ったものです。

塾長はもちろん荷風大先生。場所はこのホームページについている掲示板。先生を肴にしていろいろおしゃべりをしませんか。そのおしゃべりの材料をこの「荷風塾 学校通信」で提供していきたいと考えます。宜しくご贔屓の程お願いいたします。

高齢化社会と荷風川本三郎が荷風の話をするというので聴きに行ったことがあります。いやすごかった。川本三郎の話もさることながら、聴衆の平均年齢。ほとんどが散人よりももっと爺さんだったのです。荷風ファンは爺さんが多いと改めて実感いたしました。そういえば神田の古書店街では一番高く売られている古本は荷風の本だと聞いたことがあります。荷風が好きなのは高齢者。日本の資産は高齢者層に偏在している。かれらは余り消費はしないので経済評論家と称する人たちからは困りものだといわれているが、好きなものには金に糸目を付けない。だから荷風の本が高くなる、ということのようです。

荷風が若いころから既に自分を老人に見立てる傾向がありました。老人を否定的に見る実利第一主義の時代の中で、荷風はいわば老人の美学を追究したともいえるでしょう。老いてますます不良ぶりを発揮したのもうれしいことです。荷風は我ら老人たちの希望の星と言えるのではないでしょうか。日本の高齢化社会はいま始まろうとしています。よって自ずと荷風ファンも趨勢的に増え続けざるを得ません。まことに喜ばしい限りであります。

いま急速に高齢化が進んでいる中、テレビなんかで高齢者の生きがいはどう見つけるかとのテーマで番組が組まれたりなんかしております。でも散人に言わせれば馬鹿なことであります。もう何十年も前に永井荷風先生が答えを与えてくれているではありませんか。みんなが荷風みたいに不良老人になれば老後の人生もスリリングでまた楽しくなるのです。簡単なことであります。

でも荷風先生のライフスタイルは、昨日今日の付け焼き刃的な修行ではとても真似できるものではありません。何せ年期が入った不良生活です。その意味で、いまの若い世代も今のうちから荷風先生の生き方を勉強し、修行を積み重ねる必要があります。小さいときから始めておかないととても「大荷風」みたいには成れません。だからお若い方もぜひご一緒にわいわいやりましょう。
散人が住んでいる新宿余丁町には荷風が住んでいた断腸亭跡があります。新宿区の史跡に指定されたとかで、ようやく最近になり看板が立てられました。左の写真です。

都営地下鉄新宿線の曙橋駅から台町坂を抜弁天に向けて登り切ったあたりです。ビオセラ・クリニックという診療所の前に「断腸亭跡」との看板が出ていますが、正確にはここは永井荷風が入江子爵に売り払った土地であり、実際の断腸亭はその裏、つまりいま郵政省の宿舎が建っている地所の後ろあたりとなります

つい最近「メゾン・ド・ピュア」という変な名前の女性専用マンションが、まさに本当の断腸亭跡に建てられ、住まれている若い女性の方々の通勤通学で、一時はうらぶれていたこのあたりも、にわかに華やかになってきました。元祖助平爺を自認する荷風の霊は、さぞや喜んでいることと推察いたします。なによりの供養だと思います。

第一回はこのへんにします。続きをお楽しみに。

2002年2月9日土曜日

余丁町便り (No. 002) 2002.2.9



余丁町便り (No. 002)
                 ..................
余丁町散人

このところ暖かい日が続いて、庭のツツジが季節を間違えたのか、一つだけですが小さな花を咲かせました。昨年秋に水を切らせてほとんど枯れさせてしまったものですが、その後いろんな人のアドバイスにしたがって手入れをしていたところ、何とか狂い咲きをするぐらいにまで元気になりました。写真を写真ページに入れておきましたのでご覧ください。

ところで、やっとデジカメを買いました。いままで何となく買う気になれなかったものですが、ホームページに写真がないとやっぱり淋しいと思って、散人の誕生日(1月31日)を機会に買ったもの。なかなか良いものですね。もっと前に買って居ればよかった。


掲示板を開設

ホームページに来られる方と自由な意見交換が出来るのも良いなと思って、掲示板を作りました。なまえは「余丁町散人の隠居小屋」と言います。したにリンクを表示してありますのでクリックしていただくと来ることが出来ます。掲示板とはボレティン・ボード・システム(BBS)といって、ネット上に作られた複数の人たちが意見交換したりお話をしたりする場所のことです。難しい規則なぞ何もありませんので、気軽にお越しください。匿名で書いていただいても一向に構いません。

今のところ、散人が主に書いておりますが、それでも二三の方には書き込みを始めていただいています。どうぞお気軽にご参加をお願いいたします。自由にスレッドの設定(話題の提起)が可能ですし、話題もまったく自由です。
昨日、出席したセミナー「ダイワのスペシャルトーク」で若林栄四氏のお話がとても印象的で裨益するところ多大と思いましたので掲示板にもポイントを載せておきました。読まれて損はないと思います。

女房どのとピカチュウ
***

女房どのの受勲に関して多くの方からお祝いのメッセージを頂き有り難うございました。女房どのも喜んでおります。あれ以降いろいろの公式行事などが続き、散人が一人でお留守番をするというのが多いのですが、おかげでホームページの製作作業もぼちぼち進んでおります。このアップル社のサイトで、全くの素人でもなんとか web ページが作れてしまう(おまけに美しい雛形が揃っているのできれいなものが出来る)というのは本当にすごいことです。やっぱりアップルは偉いのです。

うちの猫(ピカチュウ)もページに写真を載せたおかげで、多くの方から「でっかい猫だ」とのご感想をお寄せいただき恐縮です。すっかり有名になって本人(?)は得意気であります。

この次は愚息のことも紹介出来るように、次に家に来たときに彼の写真を撮るように致します。

2002年1月30日水曜日

Annie's Honor

〔旧HP閉鎖に伴い要保存コンテンツをここに転載〕

Annie Vercoutter 国家功労勲章シュヴァリエ叙勲式大使の挨拶 (2002.1.23)
 ..................  

1.フランス共和国上院議長、上院議員の皆様、そしてご出席の皆様,この度のクリスチャン・ポンスレ フランス共和国上院議長ご一行の来日は大変光栄なことであり、お越しくださいましたことに対し、ここにおります全員を代表して厚く御礼申し上げます。そして本日、ヴェルクテール=橋本様の日仏関係への高いご貢献に対し、フランス共和国大統領並びにフランス政府から国家功労勲章シュヴァリエ 叙勲式を挙行できますことは、私の大きな喜びと致すところでございます。 お二人に栄誉ある勲章を授けられますことは、日本におけるフランス人社会の活力、質の高さ、多様性、そして日本への密着度を物語るだけでなく、そこに一貫性があることをも示しています。お二人とも、それぞれの分野に置いて、フランス人社会の利益を守るために努力されているという、共通点があるのです。 本日お二人の受賞者のためにお集まりくださいました、ゲストの皆様方にも敬意を表したく存じます。

 2.ヴェルクテール=橋本様、在日日仏家族の会 会長であられる貴女は、お父様が高名のエジプト学者でいらっしゃいました。そしてお若い頃からアジアに興味を持ち、中国語と日本語を熱心に勉強され、この道の専門家として広く認められるに至りました。 1965年から73年まで、パリの高等中国学院、そして高等教育実務学院で図書館司書をつとめられました。 研究と教育への関心は深く、1984年から98年まで、諸外国で日本政府が発行している冊子「Cahier du Japon」と緊密な協力関係を構築されました。日仏会館発行の雑誌「Ebisu」の編集委員会のメンバーでもあり、また、在日フランス商工会議所発行の雑誌「France Japan Echo」にも定期的に記事を執筆なさっています。東京のパリ高等経済学院でも5年間にわたり、日本文明についての講義を担当なさいました。 教育にも情熱を注いで居られます。日本滞在中のみならず、中南米のメキシコ、カラカス、ブエノスアイレスにご滞在中も、日仏学院やアリアンス・フランセーズで、教鞭をとられました。日本では、若い外交官がフランス語とフランスのより良い理解のために研修をする機関である外務省外国語研修所、そして一橋大学でも、講師としてフランス語の普及に尽力されました。 さらには、教育者としての経験に根差し、日本の教育制度をフランスに分かりやすく紹介されました。中でも、フランス大学図書出版の「今日の教育」シリーズの一冊として1997年に発行された「日本の学校で」という著作は、今までほぼ未開拓であったこの分野での必読書となりました。 私は着任以来ずっと、貴女の、ご自身の信条を貫き、日仏間の対話に前向きな姿勢を高く評価しています。貴女は常に、在日フランス人に日本をよりよく理解してもらおうと心を配り、特に日仏家族を気遣われています。貴女の長年の活動はこうした考えに根付いているのです。 

3.貴女は、在日日仏家族の会 会長として、日仏両国民の効果的な親交を図るべく、出会いの場を作り、交流を促しました。そして、最初はとてもかけ離れているようにみえるけれども実はフランスとの共通点も多くある日本文化を、大人にも子供にも理解させ、日常生活に困らないようにしました。 貴女はまた、日仏家族が抱える問題、たとえば二つの母国語、教育、個人としての権利の問題などについての話し合いの場を定期的に提供しています。こうして、日本における最初の「FLAN-母国語としてのフランス語」計画を打ち出しました。このプロジェクトは、外国におけるフランス語教育庁が特別の関心を払ってその行く末を見守っています。 ヴェルクテール=橋本様、数多くお持ちの才能を存分に発揮され、両国民の相互理解の促進に寄与されました貴女は、その活動のゆえに、そして日本におけるフランスの存在にとって、貴重なお方でいらっしゃいます。 ですからこそ、フランス共和国大統領の名に於いて、そして私どもに与えられた権限により、貴女を国家功労勲章シュヴァリエと致します。

〔翻訳、在日フランス大使館)

冬のお便り 2002.1.30



冬のお便り 2002.1.30
                 ..................
余丁町散人

すっかり寒くなって来ました。我が家の庭にはちょうど水仙が咲き始めました。昨年球根を埋め戻したものですが、効果があったようでとてもきれいです。

庭のウメとハナモモが小さな芽を着けています。寒さの盛りですが、春遠からずというところでしょうか。

猫の散歩

うちの猫(ピカチュウ)にハーネスを付けて散歩させています。まだまだ慣れないので、まず庭の中を動き回らせています。だんだん上手になってきました。そのうち外にも連れ出します。
一昨年の10月に公園に捨てられていた子猫ですが、知人(カトリーヌ)が通りかかると足にしがみついてよじ登り始めたそうです。とても生きようとする意志が感じられ、カトリーヌはどうしても置き去りにすることが出来なかったそうです。いろいろあって散人宅で引き取ることになりました。立派な雄猫に成長。体重は5.4キロになりました。
ホームページを作ってみようと勉強を始めました。まず手始めにこのマックのサイトで試してみようと思います。徐々に手を入れていきます。

結構楽しいものですね。

デジタルカメラも買わなくっちゃ。

女房どのの受勲
***
Annie Vercoutter

わが女房どの は今般、フランス政府から国家功労賞(オルドゥル・ナシオナール・ドゥ・メリット)を頂きました。長年にわたる日本研究、著書の『日本の学校にて』、及び日仏家族の会会長としての貢献が評価されたものであり、大変名誉に思っています。散人も「内助の功」が認められたことで、嬉しく思います。

叙勲式におけるフランス大使のスピーチは、女房どのの人生を簡潔に言い表していると思いますので、次のページに載せておきました。

2001年12月1日土曜日

いわゆる「体育会」的なもの

「紺青」2002 Vol. 21 (2001年会報) に寄稿


いわゆる「体育会」的なもの


たまにではあるが、悪いものを食べて寝た晩など、紐の夢を見ることがある。何か差し迫った状況の中、必死でなにかの紐を結ぼうとするのだが、うまく行かない。状況はどんどん悪化して行く。だれかに大声でせきたてられているのだが、どうしても「舫結び」のやり方が思い出せない。「わあ、どうしよう」というところで目が覚める。ヨット部でクルーをしていたときスキッパーから怒られた経験が、いまだにトラウマとして残っているのだ。

ことほどさように、僕はできの悪いクルーであった。もともと体育会ヨット部に入部したのもスポーツが苦手であるくせにスポーツ選手にあこがれていたため。普通の運動部だったら中学高校からの経験者がうなるほどいるだろうが、ヨットなぞやっている高校生は少ないから同じスタートラインで勝負できる。ひょっとしたら自分もいいところまでいけるかも知れないという期待があったから。でも入部早々、その期待が甘かったことをさんざんに思い知らされることとなった。

それでもなんとか四回生までヨット部を続け、最後は全日本にも出ることが出来たのは、かなりラッキーだった。郷にいれば郷に従え、朱に交われば赤くなる。上級生になると入部したときの苦労は何とやら、スナイプの上で怒鳴り散らすスキッパーとなっていた。クルーの丸山清喜君には今でも悪いことをしたと思っている。でも当時はそうでなければ勝てないと思っていた。

卒業して社会人になっても、しばらくはディンギーのクラブ・レースなぞに出たが、問題はクルー。なり手がなかった。家内をうまく言いくるめて一緒に乗って貰うのだが、続かない。あんたはあまりに serious だという。レースとなれば遊びじゃないのだから真剣にやらねばならないと説明しても、日本人はテンションが強すぎてヨットには向いてないと暴言を吐く。家内はフランス人でブルターニュの海で小さいときからディンギーに乗っていた。ご存じのようにあの辺のディンギー乗りは凄い。でも云っている意味がよくわからなかった。

ようやく家内の云っていることがわかったのは、ベネズエラに駐在したとき。ビーチ・クラブでスナイプに乗ることになって、あるとき知り合ったフランス人の若者にちょっとスナイプを貸してやったが、彼の乗り方にまさに驚倒した。家内と二人で出ていったのだが、しばらくすると家内を下に座らせて自分でバランスをとり、完全にティラーを放して、セールのトリムとバランスだけで自由自在にスナイプを操りだしたのである。あれはとてもまねが出来ない。後で家内に聞くと、かれは完全にリラックスしていて、冗談いいながらの楽しいセーリングだった由。あんたとえらい違いだったと笑われた。

日本のセーリングの歴史も結構長くなった。アメリカズカップにも何度も出場できるぐらい資金的にも余裕が出てきている。でもセーリングの技術水準はまだまだ低いと認めざるをえない。特にうまいスキッパーの数が少なく、底辺が育っていないように思う。どうも選手育成の段階における、硬直的な上下関係に基づく練習風土、いわゆる「体育会」的風土がそれを阻んでいるように思う。どのスポーツでもそうだが、歯を食いしばってただただ努力するやりかたでは、ある一定のレベルには到達してもそれ以上は難しい。特にヨットのような個人競技の色彩が強く、遊びのファクターが大きいスポーツでは、自由に楽しみながら技を極めるという姿勢が大切ではないか。

「何を今更、今はもうそういうやり方で練習しているよ」というなら、これほど嬉しいことはない。

橋本尚幸(S43卒、スナイプ)





2001年3月1日木曜日

私の羽根飾(こころいき)

この3月末で、33年間にわたる会社生活を終え、少し早いが引退生活に入ることとなった。5年間書き続けたこのコラムも、これが最後となる。これを機会に、価値観という観点から日本の問題を考えてみたい。

会社生活をはじめた頃は、高度成長期のさなかだった。当時の日本は、まだまだ貧しく、世をあげて経済成長が指向されていた。三分の一世紀が経って、日本の一人あたりGDPはすでに米国の水準に肩を並べ、数字の上では豊かな国となった。しかし国民は豊かさを実感できず、逆に国全体に、伝染病のように重苦しい閉塞感が広がっている。

そもそも物質的な富の増大とは、国民幸福の実現のための手段であったはずだが、その手段がいつの間にか目的と化してしまい、実現される名目上の富を真の豊かさに転化する戦略が、国家レベルにおいても個人レベルにおいても、忘れ去られていたように思える。

この10年進められてきた構造改革にしても、本来は国民の豊かさを実現する手段であったはずだが、構造改革を進めた90年代に国民は1200兆円の資産を失うことになる。日本の年間自殺者数は3万人を越え(1999年)、そのうち30%(9000人)は、経済的理由によるものと云われる。ベトナム戦争の時でさえ、米軍の戦死者は年間平均で5000人程度であった。国民の豊かさを求めて皆がこぞって進めてきた改革が、皮肉にも国民の生命財産に多大の犠牲を強いている。ここにも目的と手段の関係に歪みが見える。

その結果、社会の価値観に揺らぎが生じはじめている。「みんな一緒に、仲良く、一生懸命」という古い共同体の価値観は徐々に力を失い、そうかといって、それに替わる新しい価値観は、まだ社会に定着していない。集団の迷走を押しとどめ、社会にバランスをもたらすのは、結局、意見を持つ個人の存在でしかない以上、一刻も早く健全な個人主義が、日本社会に根付かなければならない。

しかし残念なことに、日本には「個」が育ってこなかった。日本文化に「個」がなかったわけではないが、西欧文明における「個」とは、社会を構成する最小限の核として積極的な意味合いを持つのに対し、日本文化における「個」は、西行、山頭火などのように、社会に背を向けた漂泊の詩人というポーズを取ることが多い。特に人が共同体のありように幻滅を感じたときに、日本人はこの消極的な「個」に逃避する傾向がある。

「個」の在り方を考える上で参考となる例として、ロスタンの戯曲『シラノ・ド・ベルジュラック』を引用したい。最後まで権威に迎合することなく、貧窮の中で最期を迎えたシラノは、(自分の地位財産は奪えても、決して自分から奪えないものがある。それは)「私の羽根飾(こころいき)だ」と叫ぶ(辰野隆、鈴木信太郎訳)。羽根飾とは彼の尊厳の象徴だった。個人主義の国フランスでは、シラノが今なお最も好まれる人物像となっている。結局、「個」が生きる社会とは、他から与えられるものではなく、各人が自分の尊厳(ディグニティー)を守る努力をすることで実現するものだと思う。

小生も最後に「私の羽根飾(こころいき)」と云って筆をおくこととする。さようなら。

(橋本尚幸)

2001年2月1日木曜日

「徳政令」の亡霊に怯える現代日本

今年のNHK 大河ドラマ「北条時宗」は、なかなか快調な滑り出しだ。秩序を重んじ公儀に生きるという、伝統的な侍のイメージとは大きく異なる、どぎついまでに個性的で荒々しい武士がたくさん登場するのが面白い。舞台の鎌倉時代は、いろいろな意味で日本の源流を形づくった時代だが、我々の祖先はもともとこういう人たちであったのだと思うと、なにやら元気が出てくる。

経済史的にみると、鎌倉幕府とは地方地主の権利を朝廷に認めさせた一種の共和政権といえる。幕府の成立はイギリスのマグナ・カルタの調印よりも古く、世界史的にも誇りうるものだ。

一方で、鎌倉時代にも汚点がある。弘安の役で困窮した御家人集団を救うため実施された、すべての借金を棒引きにするという「徳政令」のことである。債務者にとっては、債務の免除は確かに「徳政」かもしれないが、債権者にとっては資産の召し上げであり「悪政」となる。だから「徳政令」とは、「公的権力による、特定の集団からの富の収奪と、別の集団への富の再分配」と定義したほうがよい。

たいていの場合、徳政令の受益者の声の方が大きいので政治的に人気を得やすい。よって鎌倉時代以降、歴代政府は、いろいろ形を変えながらこれを繰り返して来た。

記憶に新しいものは、太平洋戦争後の新円切り替えだが、政府は預金封鎖とインフレで債権者(預金者)の資産を奪い、債務者(政府)の借金を棒引きにした。戦後の「ばらまき行政」にしても、納税者から特定既得権集団への富の再分配であり一種の徳政令だ。魅力のある鎌倉時代ではあるが、以後につながる「徳政令」の前例を作ったのだけは感心しない。

今、積み上がる巨額の財政赤字を抱え、政治家や官僚がこの伝統の「徳政令」の誘惑に駆られるとしても驚くことではない。平成の世に、徳政令をどういう形で具現化させうるかというと、まずはインフレという形での借金の棒引き。すべての国民の資産の実質価値を低下させることで債務者(政府)の借金を棒引きにできる。また資産課税や相続税の徴税強化もある。政府の債務は700 兆円。それに対し日本の個人金融資産は1300 兆円。人はいつかは死ぬので、気長に待ってこれを相続税で召し上げればよいとの安易な発想。だから財政再建になかなか本腰が入らない。

でも、こうした徳政令は、過去には成功したかも知れないが、平成の世には決して成功しないだろう。内外物価の平準化で当分はデフレが続くので、インフレ誘導はやろうとしても難しい。平均寿命はどんどん延びるので、相続税収も期待できない。一番大きな理由は、昔の日本経済は閉鎖経済であったが、今はグローバル経済の時代だということだ。国民と政府の関係は、伝統的な運命共同体的な関係から、間に距離を置いた利害関係に変化しつつある。国民の政府に対する信頼感がいったん低下するや否やキャピタルフライトが始まる。これは諸外国で経験済みのことである。

資本市場のセンチメントがなかなか好転しないのは、納税者から富を集め既得権集団にそれを再配分するという、昔ながらの政治の「徳政令」的体質に、市場が不安を感じているからだと思う。

(橋本尚幸)

2001年1月1日月曜日

インデックス型投資信託と総合商社

2000 年後半の日本の株価下落はきびしかった。なかでもハイテク株の急落はきつく、時代を先取りするつもりでIT 関連の株を多く組み込んだ成長株投信を買っていた人たちは、苦い思いで年末を迎えたのではないだろうか。こんな方にぜひ読んで貰いたい本がある。バートン・マルキールの『ウォール街のランダム・ウォーカー』という本だ。

「株式投資の不滅の真理」との副題がついたこの本はアメリカですでに150 万部近く売れている。結論は全ての戦略的な投資信託は疑ってかかれと云うもの。著者は、何千本と販売されている投資信託(バリュー型、ファンダメンタルズ型、成長型、テクニカル型などなど)の過去のパフォーマンスを徹底的に検証し、ほとんどの戦略的な投資信託は単純に機械的に投資を分散するS &P インデックス連動型投信よりもパフォーマンスが悪いことを立証したのだ。株価の動きは結局誰にも解るものではないので、いわゆる「戦略ファンド」はファンドマネージャーに支払う馬鹿高い報酬分だけ確実にパフォーマンスが悪くなると云う、まことに理屈にあった理論だ。

当然投信の運用で飯を食っているファンドマネージャーには大変評判が悪いが、個人投資家には大人気でミリオンセラーとなっている。

さてこの理論の企業経営へのインプリケーションを考えてみたい。このマルキールの教えを早くから実践している企業が存在するのだ。それこそ世界に冠たる日本の総合商社だ。

扱い品目は二万点を越えると云われ、産業の隅々にまでその活動範囲を広げており総合商社の業容は日本経済の縮図とも云われる。実際に総合商社の粗利益はGDP などのマクロ指標と驚くほどの相関性がある。まさにビジネス版のインデックス投信だ。総合商社はその幅の広さ故に抜群の不況対応力を持ち、数々の「冬の時代」を乗り越え生き残ってきた。このことは総合商社の今後の課題を考える上できわめて示唆的である。二つのことが言えよう。

まず第一に、総合商社にとって「総合性」こそがコアコンピタンスであるということ。「戦略分野」なるものを特定し突っ込むのもよいが、むしろ経済全体の構造変化に的確にフォローし資源配分を継続的に変化させ続ける事が重要となる。総合性を失った総合商社は「ただの会社」だ。

二つ目に言えることは、社内コストの低減が重要課題であるということだ。インデックス型投信が競争力があるのは運用コストが圧倒的に安いからである。前述のように商社の粗利益はマクロ指標で規定される以上、いかにコストを削減し生産性を上げるかで純利益に差が出る。はやりのIT をいかにコスト削減に結びつけうるかが勝負の分かれ目となる。

蛇足ながら、マルキール理論は国民経済についても適用可能だろう。最近、政治家や官僚が今後の成長分野はこれだと変な指導力を発揮しているのをみるとある種の危うさを感じる。コルベール以来、上からの産業政策が成功した例は少ない。何もしない小さな政府は、変なリーダーシップを発揮する大きな政府に勝る。

(橋本尚幸)

2000年11月30日木曜日

資産の活性化が日本再生の鍵

米国大統領選挙での大接戦はいろんな意味での国の二分化を示すものとして暗示的だが、そのひとつに富の二分化がある。今回の選挙の両党の得票者を所得階層別に分類したデータによると、年収5万ドルを境として収入が高いほど共和党への投票者が増え、逆に収入が低くなるほど民主党への投票者が増えるというきれいな対照性が観察できる。米国では上位1%の富裕層が株式全体の48%を保有しているが、この格差は更に拡大する傾向が見られる。

しかしこの富の格差が近年の米国経済の急拡大の原動力ともなっていたことも事実である。資本が集中することで、投資活動がより専門的でリスク許容度の高いものとなり、それが90年代の勇猛果敢な新規分野への投資と米国経済の大躍進に結びついた。

それに対し日本は、伝統的に平等を重んじる社会である。富の格差はきわめて小さい。上位一割の階層が所有する金融資産は全体の38%に過ぎず、上位1%の階層が株式の48%を保有するアメリカに比べて遙かに平等だ。更にこの格差は縮小する傾向にある。今年の国民生活白書によれば90年代を通じて日本人の資産格差は着実に縮小してきたとのことだ。

背景にはバブルの崩壊がある。90年代で日本国民が失った土地と株式の資産総額は1200兆円という。種々前提をおいて推計すると、日本の上位中産階級(上位一割の世帯、約400万世帯)は一世帯あたり4000万円の損失を被った計算になる。これは格差の縮小につながったが、同時に国民の投資活動を萎縮させ保守化させる結果にもなった。一方で、長期にわたる不況にも拘わらず勤労者所得は実質では目減りしていない。一人あたり実質GDPは90年比で約12%上昇している。失業率も5%以下だ。だから国民の危機感はまだまだ希薄で、構造改革は進まず、経済は停滞したままだ。

日本においては、ほとんどの国民は勤労者であると同時に資産家でもある。90年代を通じて日本国民の「資産家の側面」は大いに痛めつけられ、逆に「勤労者の側面」は過剰に保護されてきた。高齢化、少子化を迎え経済の生産性上昇が喫緊の課題となっている。そのために資本の有効利用と積極的な投資活動が決定的に重要だ。国民の「資産家の側面」を活性化させる政策が21世紀の日本の経済再生の鍵を握る。

(橋本尚幸)

2000年10月11日水曜日

21世紀の総合商社

2000/10/11

総合商社とは簡単そうで複雑である。


通産省の貿易業態統計調査によれば日本に貿易業者は11843社あるという(平成5年度調査)。その大部分が中小業者であるが、その中で10社足らずの貿易業者が突出して大きく、総合商社と呼ばれている。

欧米にはない企業形態。欧米では貿易商社はあるが特定品目に特化するのが通常で、日本のように総合的にラーメンからミサイルまで取り扱うことはない。日本は欧米のまねをしながら経済発展をしてきたので欧米にない企業形態を持つ総合商社の存在というものに対して何となく居心地の悪い思いをしてきた。

それが総合商社に対する評価にも現れている。ある時は日本の経済発展の原動力、日本の秘密兵器と持ち上げられ手放しに評価されるときもあった。ある時には逆に商社は不要であるとか、斜陽であるとか、極端には「諸悪の根元」であるとか過小評価された。

時代の節目節目で総合商社への評価が変わった。評価にふれが大きかった。

21世紀を目前に控え、今日本は再び時代の節目にある。今再び総合商社というものに対する期待と不安が錯綜しているように思う。21世紀総合商社はどう生きて行くのか考えを述べたい。

商社の歴史

古い歴史をもつ商業(商社の基本形は普遍的で不滅)

商業とは古い歴史を持つ業種である。古くは縄文時代にすでに黒曜石の全国規模の交易が為されていたようだ。総合商社とは商業交易に従事する産業と考えれば決して特殊なものではない。歴史のある職業である。ちょっとやそっとの事でぐらぐらするようなものではない。

最も総合商社が現在のような総合的国際的な企業組織として大きく発展したのは明治以降である。長い歴史のある商人としての活動から大きな組織として動く「商社」への大きく変身していった。

商社変身の背景(社会のニーズへの対応)

その背景には社会のニーズがあった。近代社会へと脱皮を図る明治の日本社会と産業は彼らに足らないものをどん欲に商社という生まれて間もない国際企業に求めた。商社は賢明に彼らのニーズに応えるべく努力をして提供機能を増やしてきた。社会のニーズに応える形で商社は巨大化してきた。

戦後、日本は大きく変わったが、経済産業の発展の基本パターンは基本的にこの構図であった。

ある時は貴重な外貨を稼ぐために輸出の尖兵として、ある時は日本産業に欠乏していた技術と設備を海外から導入する代理店として、ある時は資源開発者として、非鉄資源原油の開発に邁進し、ある時は流通革命を担い、ある時は企業の海外進出のパートナーとして、そしていまITI革命の先方として日本の総合商社は活躍してきたのである。それらはすべて時代のニーズに応え、またニーズを先取りして提供機能を作り上げたものである。

プロダクツライフサイクル

製品にプロダクツライフサイクルがあるように商社の提供機能にも成長と衰退がある。

商社が時代時代で提供してきた機能も、その一つひとつを取り上げると、時代時代で浮き沈みがある。しかしそれら商社が提供してきたサービスと機能は、提供当時はたいへんなニーズがあったものであるが今やその意義を低めてしまったものが少なくない。

でも商社にはその提供機能が(提供能力が)形を変えて残っている。完全にはやめてしまったものはない。それら無数の「新規開発機能」は役割を終えた今でも総合商社に蓄積され積み重なっている。

それこそが日本の総合商社を世界でも類のないものとしている特徴に他ならない。機能の総合性である。

こういった外延一辺倒の拡張主義が「総花主義」とも批判された事も事実である。しかしこの総合性にこそ日本商社の特徴がある。世界の誰もまねのできない強み戸もなっている。

21世紀に向けて総合商社は?

結論的に行って21世紀は総合商社の時代になると思っている。商社は従来からの基盤をベースとしながら再び新たな機能を社会に提供し、変身し日本産業の新たな発展に寄与していく。さもなければ生き残る資格はない。

21世紀に商社が新たに提供していく機能とは何か?それはITであり、FTであり、LTであるのだ。

それに加えて商社の伝統的機能である「商業」へのニーズが再び高まるものと考える。今日yそうがすす店日本企業の戦略的資源の選択と集中がまだまだ進む。企業が今までインハウスでやっていた作業工程がどんどん外部化される時代になる。取引の発生であり企業間取引は幾何学的に増加する。それを仲介するのが賢い効率的な商社の仕事。21世紀は卸売業が再び脚光をあびる時代になる。機能のない介入は排除されて当然。競争力のある商社が安くて優れた仲介サービスを提供するのだ。無限のフロンティアがある。

なか向きされる仕事は中抜きされて当然。言いたいことは取引の絶対量、トータルのパイが増えることである。

すべての産業分野にコンタクトがある商社の総合性がこの場合の強みとなってくる。

投資会社としての商社の変身もある。商業とは組み合わせである。フォーメイションである。オルガナイザー機能。その中で不足する部品があれバッジ分でそれをつくる。商社の事業会社、投資会社としての性格である。それが隙間を埋めていく。

おわりに

戦後のある機関、大量生産大量流通がもてはやされ、商社の卸売業者としての地位が陳腐化したかのように見えた時期もあった。しかし今や生産車種道の大量生産大量流通の時代は終わった。需要か消費者の意向がもっと前に出てくる時代である。需要家のニーズを仲介する問屋に、古い産業であるが、21世紀再びニーズが増し、問屋が脚光をあびる時代になる。

いい意味での商人に徹して社会に貢献することが大切だろう。

2000年10月1日日曜日

企業と倫理と集団と個人

アリを注意深く観察した人によるとせっせと働いているかに見えるアリの群も本当に働いているアリは全体の2 割にしか過ぎず残りの8 割のアリはほとんどさぼっているとのことだ。全員を働かせようとして働くアリだけの群をつくっても結果は同じ事でその中の8 割がまた怠けはじめるらしい。逆に働かないアリばかりを集めると今度はそのうち2 割が働き出すという。「群」の本能なのであろう。

自然の摂理であるならば人間社会にも当てはまるかも知れない。でも人間はアリより頭がよいのでこの2 割という数字を少しでも引き上げて全体の生産性を上げるべくいろいろ工夫がなされてきた。ひとつのやり方は単なる「群」を組織化し規律を高めひとつの目標に向けて邁進する運命共同体化するものだ。

これはどうも最初はユーラシア大陸の軍隊ではじめられたようで、ローマの亀甲歩兵軍団は、その組織力とチームワークでヨーロッパ全土を制覇した。ベンガルのプラッシーでは、整然と隊伍を組んだイギリス東インド会社軍は、人数は数倍だが烏合の衆に過ぎなかったムガール軍を殲滅しイギリスのインド支配を確実にした。日本においても、個人プレーしかできない鎌倉武士団は集団戦法を採る元軍に全く歯が立たず危うく征服されるところであった。

なぜ組織化された軍隊は強かったのか。国際政治学者の亡き高坂正堯によれば、密集隊形をとる軍隊の強さの秘密は兵士達が決して「大義」などという高尚な目的の為ではなく「肘と肘を付き合わせドラムの響きとともに前進する隣の仲間を裏切らないため」だけに超人的な勇気を発揮するからだそうだ。つまり集団主義のドライビングフォースはまさに組織体と仲間への忠誠であり、それは正義とか倫理などの普遍的な価値観より優先されるということなのである。

ここに問題が生じる。この点をいちはやく指摘したのが夏目漱石である。漱石は「私の個人主義」と題した講演(大正3 年、於学習院)のなかで「国家的道徳というものは個人的道徳に比べると、ずっと段の低いものである」と述べ、人間は集団となるとどうしても徳義心を失いがちであるからこそ個人主義が重要であると説いたのだった。

昨今のたび重なる企業不祥事は社会に企業倫理の問題を提起している。多くの企業でコンプライアンス・システムの制度化が検討されているが、集団の本質に触れた漱石の指摘は傾聴に値するだろう。漱石は続いて、この集団主義と個人主義という二つの主義は矛盾するものではないとも話している。しかし「この点をもっと詳しく述べたいのだが時間がない」とそれ以上は論を進めなかった。その後すぐ漱石は死んでしまったので我々は「もっと詳しく」聴けないままでいる。だから我々は自分たちでこの「解」を見つけるべく努力しなければならない。

(橋本尚幸)

2000年9月1日金曜日

まず身近なところから国際基準にあわせよう

暦では9 月7 日は「白露」といい、この頃から秋気が漸く加わるとされる。9 月に入っても気温が38 度近くまで上がることもあるが、ちょっとした涼風に秋が忍び寄ってきている気配を感じる時もある。夏をようやく過去形で語れるようになってうれしい限りだが、今年の夏は本当に暑かった。気象庁が発表した6 -8 月の気候統計によると、この夏、最高気温が30 度を超える真夏日が56 日もあり、熱帯地方さながらの記録的な猛暑であったという。

わけてもサラリーマンにとってたいへんだったのは朝の通勤だった。朝の太陽はすでに高くぎらぎらと人々を焦がし会社に着く頃には汗でハンカチはぐっしょりと濡れて気力ももうぐったりである。なぜ朝からこんなに太陽が高いのか。理科年表で調べてみると東京地方では午前3 時台にもう夜明けが始まる(6 -7月)。朝、会社に向かうときには夜明けからすでに5 時間程度経過しているのだ。太陽が高く暑いわけである。

先進国のなかで夏時間を導入していないのも日本だけだ。涼しいうちに会社に着けるよう夏時間の導入を真剣に検討してはどうだろうか。日本の諸制度をグローバル基準にあわせることが課題になっているが、こういう身近なところからまず始めて欲しいと思う。

国際標準に合わせる必要がある身近な問題はほかにもたくさんある。日本の都市景観もそうだ。特に空中に張り巡らされている無数の電線と無遠慮に林立する電柱は都市景観を著しく醜いものとしている。日本の社会資本ストック(残高)は一人あたりで先進国中ダントツだが電線の地中化では先進国はおろか発展途上国にも立ち後れたままだ。

日本のオフィス環境についても然りだ。一人あたりのスペースが非常に狭い。最近インドからIT 関連技術者がぼちぼち東京にやって来つつあるが、彼らは日本の狭くて劣悪なオフィス環境に仰天しているという。欧米先進国に範を求め日本の後進性を罵ることが本意ではない。

問題としたいのは、大多数の日本人がこういった問題をそれほど深刻には受け止めていないということである。「夏時間で明るいうちに家に帰れば亭主のこけんに拘わる」とか「電柱が無くなれば犬が小便するときに困る」とか「狭い事務所のほうが社内のコミュニケーションが良くなる」とかいう。しかしこういった小さなローカル性が日本を魅力のない孤立した国にしていることは認識されるべきだろう。

魅力のない国には人は集まらない。人が集まらなければ21 世紀の経済発展もない。日本の諸制度をグローバル基準に合わせることはもちろん大切であるが、こういった身近な生活環境から国際基準にあわせていくことのほうがより意味のあることのように思える。

(橋本尚幸)

2000年8月1日火曜日

グローバルスタンダード経営は日本企業を強くするか

株式会社に関する商法の規定の抜本的な見直しが検討されている。具体的には株主総会や取締役、監査役といった企業統治(コーポレートガバナンス)の在り方の見直しなどが柱だ。法務省では2年後をめどに法改正を目指すという。また経済同友会の企業経営委員会でも昨年来この問題についての検討が続いており年末には提言にまとめられる予定だ。あたかもよし。企業経営の目的は何か、企業経営はどうガバナンスされるべきか。この古くて新しい問題を取り上げてみたい。

最近の経営理論によれば企業は株主の利益のために存在するという。だから株主の立場からの企業経営者へのガバナンスを強化するべきでこれがグローバルスタンダードだとのことだ。確かに明快きわまりない。この数年の米国企業の力強い活躍ぶりと日本企業の低迷ぶりを見せつけられていると、この主張には説得力があり、簡単には反論しがたい雰囲気がある。けれども大多数の日本の経営者、従業員は、理屈はともかく、この理論には何かついてゆけないもの(違和感)を感じているのではないか。この違和感はどこから来るのか。

例えば「企業の目的は株主価値の最大化である。仕入先、従業員などのステークホルダーズへの報酬はあくまでも市場原理にもとづく利害調整にすぎず、これは経営目的とはならない」という。でもそもそも日本社会において企業とステークホルダーズの間に「市場」が存在するのだろうか。原材料とか所要資金とかの財・サービスには市場が存在するとしても労働力については市場はきわめて不完全である。転職は簡単ではない。また日本の労働者、従業員の勤労目的がどこかの国のように100 %経済的報酬の獲得だけにあるとも考えにくい。「意気に感じて働く」というタイプの従業員がまだまだ多いのである。

環境などの外部不経済については市場自体存在しない。日本ではステークホルダーズとの利害調整に市場原理が働かない(もしくはきわめて働きにくい)のである。前提が違う。よってこれらのステークホルダーズとの利害調整については経営者が個別に対処して行かねばならない。経営目的のひとつとならざるをえない。

経営者に対するガバナンスの強化についてもそうだ。グローバルスタンダード論者は独断専行に走る経営者を排除するためにガバナンスの強化が必要という。でも最近の日本経済の低迷を考えると、この状態からの脱出に必要なものはむしろもっと強力な経営者のリーダーシップではないのか。ガバナンス、ガバナンスといって「カバナンスを効かせたがその結果会社がつぶれてしまった」では笑い話にもならないのである。

企業は社会を構成するひとつの組織である。企業の所属する社会の特性に応じて企業の形態も異なってくる。さもなければ競争力を失う。日本社会はゆっくり変化しており、今はざかい期にある。その日本の現状にあわせ選択制の採用など現実性のある企業統治の在り方が議論されるべきだろう。

(橋本尚幸)

2000年7月1日土曜日

一年で激減した日本の対外純資産残高の謎

最近の日本では景気の悪い話ばかりが続くので少々の悪いニュースでは驚かなくなっているが、6 月に発表された99 年末の本邦対外資産負債残高統計には文字通り驚倒してしまった。昨年一年で日本の対外純資産残高が一挙に36 %、額にして49 兆円も減少してしまったというのである。これは一体どういうことか。

対外純資産残高というと日本が外国に対して保有している資産総額から外国に対して日本が負っている負債総額を引いたものであり、いわば日本国民の貯金である。60 年代から日本の経常収支の黒字を毎年こつこつと積み上げて98 年末にはようやく133 兆円にまで育ったものだ。日本が高齢化社会を迎える将来、高年層を養うために大きな助けとなると頼りにしていたもので、まさに虎の子の貯金であった。それが一挙に4 割近くも減った。これほどまでの大幅減は過去になかった。理由を確かめねばならない。

日本銀行によると、対外資産負債残高の基本的な増減要因は、99 年中の財サービスの貿易収支、所得収支と移転収支の合計である経常収支であるが、これは12 兆円のプラスに働いた。しかし円高による外貨建の純資産の評価減が22 兆円発生した。さらに本邦株価の大幅な上昇で日本の負債の時価評価が増加したことでここでも大きな評価損が発生し、合計では経常収支の黒字を大幅に上回る損失となった。その結果、対外純資産は49 兆円もの大幅減少となったということである。

要は、経常取引ではコツコツと黒字を積み上げたのにも拘わらず為替と株で大損をして稼ぎが全部なくなった上に資産を食いつぶしてしまったという話で、まことにお粗末な話だ。

もう少し具体的に中身をみてみたい。切り口を変えて、49 兆円の純資産の減少の内訳を、直接投資、証券投資、貸付残高、借入残高などの項目別にみてみると、純資産減少のほとんどは証券投資、なかでも株式投資の減少(45 兆円)で説明できることがわかる。株式投資をさらに資産・負債に分けてみてみると資産(日本人の外国での保有株式)は5 兆円しか増えていないのに拘わらず負債(外国人の日本での保有株式)は50 兆円も増加していることがわかる。外国人投資家の日本における株式運用実績はTOPIX の上昇をはるかに上回るものであった。また証券投資のなかでの株式比率が外国人投資家では高く、日本人投資家では低かった(逆に債券比率が高かった)ことも大きな運用実績の差につながったようだ。

結論的にいえば、日本国民は日夜残業して働き、財サービスを輸出し資産を築きあげたが、資産を運用する投資家の国際競争力に彼我で大きな差があったために、せっかくの資産もあらかた失ってしまったということである。アリの蓄えをキリギリスが奪ってしまったかたちだ。これを繰り返さないためにも、日本人はもっと投資に強くならねばならないと身にしみて感じた次第である。

(橋本尚幸)

2000年6月1日木曜日

景気対策の既成概念を問い直すとき

「人間は常に過去に学んだ経済理論の奴隷である」とは、古くさい経済理論への思いこみをいさめた警句であるが、日本の景気対策をめぐる議論を聞くにつけ、今さらながらこの言葉が思い起こされる。

いま日本で景気対策について為されている議論とはだいたい次のようなものだ。曰く「景気の回復感が今ひとつ感じられない。景気対策が必要だ。一方で積み上がる財政赤字はゆゆしき問題だ。しかしいま財政再建に手を着けると、ただでさえ弱い景気を更に冷やすことになる。それは経済理論が教えるところだ。経済学の教科書には、Y (GDP )=C (消費)+I (民間投資)+G (公的支出)とある。Gを減らすと同じだけY は減るので景気は悪くなるのだ。よって財政改革は景気が十分に良くなるまで待たねばならない」というものである。

この理屈は簡単であるだけに説得力があって、いままで財政再建は先送りにされ、ゼロ金利とともに公共事業中心の景気対策が継続されてきた。でも一向に自律的な景気拡大は始まらず、財政赤字は信じられないほどの大きさにまで拡大してしまった。今月発表された国際決済銀行(BIS )の年報はこの点を鋭く批判している。日本経済の低迷の「ただ一つの最も深刻な構造問題」は「弱い個人消費」であると指摘し、さらに「このままのペースで財政赤字の拡大を続けることは不可能(アンサステイナブル)」と、景気対策による政府財政の悪化が、雇用や年金受給に対する不安を強め、個人消費を萎縮させているとの見方を示している。

どうやら、いままでわれわれが正しいと信じて疑ってこなかった教科書そのものを問い直すべきときが来ているらしい。その意味で今般発表された富士通総研の絹川真哉氏による分析がとても興味深い。絹川氏は「構造的時系列モデル」という一般的な需要モデルに替わる新しいツールを使って日本において財政再建が短期的にも景気を刺激する効果があることを明らかにしたのである(FRI 研究レポート、May2000 )。われわれはこの研究成果を歓迎するものである。われわれ生活者の実感にきわめて近いものであるからだ。

多くのアンケート調査でも消費者の多くが消費支出抑制の理由として雇用、年金受給などにおいての将来の不安をあげている。将来不安が続く限り節約し貯金すること以外に何が自分の老後を保障してくれるというのか。国民がそう思えばこそ、一向に個人消費は伸びず、逆に実質値ではこの数年大きく減少し続けているのである。景気がいつまでたっても起爆しない根本的な理由はここにある。

いままで長い間、政府は在来型の景気対策を続けてきた。われわれはじゅうぶん待った。理論的な裏付けも、国際的機関からの外圧という大義名分も整った。「押してもだめなら引いてみな」という唄もある。いまやゼロ金利から脱却し財政再建に取り組むことことを考えるべき時ではないか。ひょっとしたら景気はいっぺんに良くなるかも知れない。「熱田津(にぎたづ)に船乗りせむと月待てば、潮もかなひぬ、今は漕ぎ出でな」(額田王)

(橋本尚幸)

2000年5月1日月曜日

商社マンと異文化交流

春といえば人事異動の季節だが、これはいつも悲喜こもごもだ。海外への異動にしても、気候が良く文化の香り高い先進諸国へ赴任する人もおれば、灼熱の太陽に焦がされる砂漠の国に往く人もいる。もちろんそういうところが好きな人もおり、そのへんうまく調整すればよいのではあるが、これもなかなか難しく、赴任地が本人の個人的趣味と希望に一致している場合はむしろラッキーで、多くの場合なかなかそうは行かない。海外ポストの公募制も議論されるが、一刻を争う機動的なビジネス展開を命とする商社においては、これも現実的な選択肢ではない。よって多くの場合、商社マンは辞令を手にし、希望と使命感と、それに多少のフラストレーションを胸に抱いて任地に赴くことになる。

ほとんどの場合、赴任すれば自分の任地が好きになるが、少数ではあるが、自分の任地が最後まで好きになれない人もいる。こういう人たちに是非読んで欲しい本が、キャサリン・サンソムの『東京に暮らす 1928‐ 1936 』(岩波文庫)である。著者は昭和の初期に日本に滞在したイギリスの外交官夫人だが、当時の日本は軍国主義への道をまっしぐらに進みつつあり、外国人女性にとって決して住み易い環境ではなかったはずだ。それにも拘わらず、この本は驚くばかりに優しさにあふれた記述に満ちている。

「日本人を理解する唯一の方法は、他の国民を理解する時と全く同じで、まず相手に同情をよせ、そうしているうちに相手が好きになることです」という。実に参考になるではないか。実際、彼女は日本について多くのことを理解するようになる。例えば施主と職人気質の植木屋の不思議な関係のなかに、日本の権力構造の特殊性を発見する下りがあるが、鋭い。また日本における「個の自由」と「集団」の関係についても深い観察がある。夫人は注意深く言葉を選びながら、「個の自由」を優先するというイギリスの価値観のほうが、多くの社会的コストを伴うものではあるが、より優れているとはっきり述べる。さらに日本もやがてはその方向に変化していくであろうと示唆する。

文章に格調があり、観察に幅と深さがある。良著である。サンソム夫人の予言通り、戦後になって日本人は個人の自由を手に入れた。しかし最近、若者たちによる信じられないような事件が立て続けに起こり、人々は戦後の価値観そのものにも不安を覚えはじめている。集団から自由になった若者が、それに替わる新しい価値基準をいまだに見いだすことができず、袋小路に入り込んでいるのだ。しかしサンソム夫人がいうように、イギリスにおいてすら個人の自由を得るためには多大の社会的コストを支払わねばならなかった。このコストを恐れるあまり、真に大切なものを否定することはあってはならない。

(橋本尚幸)